【Kissの会 ゲスト投稿no.106】     「翔んで熊谷」

2024-02-01    柴田 修さん

 

私が暮らしている街は埼玉県の北部にある熊谷市で、東京駅から上野東京ラインで凡そ70分、新幹線で約40分の位置にある。全国的には『日本一暑い町』として知られており、人口は約19万人。

 

江戸時代より熊谷は日本橋から数えて8番目の中山道の宿場町で人の行き来も多かった。しかし独特の文化や風習が育まれることは無く、また自慢出来るような名物や観光資源もない。”翔んで埼玉”流に表現すると「そこらへんの草を食ってるほぼ々群馬県人」と言ったところ。

 

敢えて最近の話題を上げれば2019年のラグビーワールドカップ開催により熊谷ラグビー場がリニューアルされ、それに伴い熊谷市は”パナソニックワイルドナイツ”の本拠地となった。その後、ラグビーシーズンになるとリーグワンの試合開催に伴い外部のファンも熊谷を訪れるようになった。


熊谷市には殆どの人に全く知られていない歴史がある。それは明治時代に”熊谷県”が短期間存在したという事実。1873年(明治6年)~1876年(明治9年)の間、当時の群馬県と入間県とを合併し熊谷県として存在した。しかし、期間は3年足らず、その後第2次府県統合により現在の埼玉県となった(参照:左下図)。

熊谷の特徴は夏が異常に暑く、冬は群馬の赤城山からの猛烈なカラッ風の吹く日々が続く。しかしそれに慣れると自然災害が少なく豊かな農作物にも恵まれ意外と生活し易い場所である。

 

地理的にも30分ほどの距離に東北自動車道や関越自動車道のICがあり物流拠点としては好立地で6ヶ所の工業団地が存在し、埼玉県内でも有数の総合産業都市として存在感を示している。


私と熊谷市との関わりは熊谷の高校に通い始めた時から始まった。元々、私の出身地は熊谷より更に田舎の秩父市で、学校には毎日ローカル鉄道で通学していた。その後、大学進学や社会人となり熊谷市とは、疎遠になっていた時期もあったが、仕事の関係で30代半ばから熊谷市で暮らすようになり数年後に現在の場所に居を構えた。 

話題に乏しい熊谷ではあるが、ここで私の通った 熊谷高校に残されていた1枚の面白い写真を紹介する。右の写真は明治34年旧制熊谷中学の第2回卒業式の記念写真で、偶然にも有名な小説の主人公モデルだった人物2人が写っている。

 

先ず向かって左側の〇で囲った人物が、田山花袋の小説“田舎教師”の主人公林清三のモデルだった小林秀三氏(当時18歳)。彼は中学卒業後、埼玉県羽生市の弥勒高等小学校の教師となったが3年後に肺結核で死去。当時、花袋の義理の兄が住職だった同市の建福寺に下宿していたことから、花袋が小林氏の日記を見て創作意欲にかられ、薄幸の田舎教師の物語を執筆したとされる。

 

もう1人は向かって右側の〇で囲った人物で夏目漱石の小説“坊っちゃん”の主人公のモデルとされ熊谷中の教師だった弘中又一氏(当時28歳)。彼は山口県出身、四国の旧制松山中学で明治28年5月から約1年間数学の教師を務め、明治33年に熊谷中に赴任し19年間にわたり数学を教えた。漱石は松山中学時代の弘中の同僚で“坊っちゃん”は明治39年に雑誌「ホトトギス」で発表された。現在でも熊谷市内の弘中が住んでいた場所にはそれを示す標識が記されている。

 

この街に暮らすようになり既に40年近く、古稀を過ぎコロナも影響して家でグダグダしている事がすっかり多くなった。『こんな生活していると直ぐにヨボヨボのジジイになっちまうぞ。しっかりしろ!』 と自分に言い聞かせ暮らしている今日この頃です。