Umeharaの投稿

【Kissの会 第178回投稿】  「波乱の幕開け」

2024-01-11

 

年の初めから大きな地震に見舞われた能登地方をはじめとする被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げます。今回の地震の震源地を見てもわかるように、日本列島はまさにプレートやトラフなどの地震発生原因のデパートみたいなところに位置しているんだなぁ…と、改めてその恐ろしさを認識しました。ということは、いつ大きな地震がどこの地域に起きても不思議はない!ということです。


怖い怖い!と思っていたら、今度は羽田空港から目を疑うような航空機の火災の映像が飛び込んできました。なんだか映画を見ているようで、激しい炎が飛行機全体を燃やし尽くしている映像を見て、370人を超える乗客は無事脱出できたのか⁉心臓バクバクでニュースに耳を傾けました。

 

さて、我が家には正月を上げ膳据え膳でのんびり過ごそうと目論んで、まあいい歳の長男が転げ込んで来ていましたが、鮪のようにゴロゴロしていたその息子が、地震のニュースに飛び起きて「まじか!」と、あたふたと携帯で忙しく連絡を取り始めたのです。

 

何事だろう!と聞き耳をたてると、何やら飛行機は?新幹線は?といった会話が飛び交います。よく考えてみたら、息子はとある旅行会社に勤めており、中間管理職くらいまではのぼっているらしく、自らが企画した担当地域のツアーの足に影響が出ているかどうかを確認しているようでした。こうした災害の時は、被害の状況や避難している方々の様子など、被災地の情報が中心になるのは当然ですが、実はその他にも想像もできない色々な場所で、大きな影響を受けている人が沢山いるんだなぁ…と、当然のことながら改めて気づきました。幸い息子は九州地方担当だったため、ツアーの足には影響は少なく、遅延程度で済んだようで「やれやれ!」と言って、胸をなでおろしている様子でした。

 

ところが翌日の二日になって羽田空港の航空機火災では、別のツアーがついに直撃を受け、熊本から羽田に帰るツアーの便が、Uターンして熊本に戻ってしまったようです。担当責任を担っている息子は、「うそだろー!」と、2台の携帯とPCをフル稼働させながら、熊本空港に戻ってしまった32人のツアー客を、どうやって最短で東京まで帰すことができるか!あらゆる手段にトライしながら上司への報告、添乗している部下との連携、延泊のホテル手配、航空会社への確認、振替便の確認やその空港までの移動手段確保、不安を抱えている添乗の部下への行動指南や励ましなどなど、それはもうものすごい勢いで四方八方に連絡をしまくって、あっちがだめならこっちはどうか⁈と、綱渡りの交渉をしているではありませんか。我が家のリビングは正月休みどころではない緊迫した空気に覆われました。

 

母としては、いくつになってもあどけない子供の頃の姿が記憶から消えなくて、ちょっと要領が悪くてのんびり屋だったあの子が、別人のように仕事をこなしている姿を目の前にして、私はただオロオロ、邪魔にならないように静かにしているしかありません。

さて、このツアーの顛末はさておいて、私としては息子の社会人としての成長を目の当たりにして、頼もしい!と感動する傍らで、どこか心の奥深い部分で、思い出の中に取り残されたような、何とも言えない一抹の寂しさを感じていたのも事実です。と同時に、気が付けば自分もすでに高齢者の仲間入り。子供の成長に一喜一憂するよりも、自分がこれからどう生きて、成長を遂げている子供たちとどう関わっていくか!という老い方の選択が喫緊の重要課題だという事にも気が付いてしまったのです。こんな訳で我が家の正月も、思うことの多い、波乱の幕開けとなりました。(7期 梅原)

 

 


【Kissの会 第167回投稿】  「温泉が好き」

2023-07-11

私は温泉が好きだ。火山国日本には、各地に名だたる温泉街が数えきれないほどある。有馬温泉や草津温泉、別府温泉など、メジャーな温泉地もいいけれど、私はどちらかというと東北北陸北海道、人里離れた名もない温泉源を巡って見知らぬ山間を歩き、川沿いや森林の中に湧き出ている水たまりのような温泉を見つけては、浸かってみるのが好きだった。もちろん若い頃の話であるが、今考えると恐ろしく危険な行為だったのかもしれない・・。

 

さて時は経てこのところの私のお気に入りは湯河原となっている。通い始めて20年近くになるだろうか、それほど遠くなく気軽に足が向き、比較的人が少なく、泉質もさらりとしていて肌に優しい。町は全体的に寂れていて、観光するところもあまりなく、大概の人は熱海めがけて通過していくので、本当に静かであった。

 

私の定宿は奥湯河原にある清流沿いの宿で、屋上に広々としたいくつかの露天風呂があり、新緑や紅葉の山が迫り、朝風呂は遠くに海の輝きを望み、夜中には天気さえよければ手の届きそうな満点の星空を独り占め。食事はもちろん部屋食で、新鮮な魚を中心とした献立に、器の美しさも楽しめて、至福の時を過ごすことができた。

 

ところがコロナになる少し前からこの宿にインバウンドの観光バスが襲来し始めた。天空の露天風呂はいつも人がいて、部屋で食事をしていても、外の騒がしい声が聞こえてくるようになった。ある種のインバウンドは声が大きい。こうなると料理もなんだかおいしくない。やだな!・・と思っているうちにコロナになって、2~3年ほど温泉から足が遠のいていたのだが、最近になってまた湯河原に行きたくなって、私好みの宿探しが始まった。

しばらく見ないうちに老舗の温泉旅館が高級リゾートクラブに変貌を遂げ、駅前は有名な建築家が手掛けたという、材木を組み上げただけの穴だらけな駅舎が建立され、あちらこちらに高価でしゃれた宿が林立していた。私の好きな、長閑で出遅れ感のある湯河原の町が醸し出す空気は消え、インバウンドこそまだ少ないが、何よりも人が増えている。

 

それでも私好みの古びた静かな宿はないかと探して、やっと見つけたのが奥湯河原の一番奥にひっそりと佇む、昭和14年創業、木造二階建てでわずか14室の、文人墨客に愛された純和風旅館であった。入口では漫画家清水崑先生由来の河童の像(右写真)が出迎えてくれる。


ここには小さな二つの貸し切り露天風呂があって、予約も時間制限も無く、空いてさえいれば自由にいつまででも浸かっていられる。入口にある札をくるっと「入浴中」にして鍵を掛ければ誰にも邪魔されず、季節ごとに桜や金木犀や紅葉を眺めながら、持ち込んだ缶ビールを楽しむことができる。食事も部屋食を堅持してくれていて、私たちの世代に合った質と量の気の利いた料理で、舌も心も大満足である。この宿を見つけて一年半近く、もう4~5回は訪れているが、前回いつものようにおかみが部屋に挨拶にきて、この月末でおかみを退任することになったと告げられた。とうとう来たか・・と、覚悟はしていたものの寂しく名残惜しい気持ちになった。


確かにこれだけの古びた建物や風呂を、不潔感なく維持していくのは大変な労力だろうし、ましてや部屋食ともなれば、仲居さんが部屋ごとに食事を運び配膳のたびにしゃがんだり立ち上がったり。志村けんのコントほどではないが、今では返ってこちらが申し訳なく思えてしまうような古参の仲居さんばかりで、人手不足の厳しさを感じざるを得ない。

 

また一つ、私の好きな宿が姿を変えていくのか・・。さて、次はどこら辺りを探そうか・・。どなたか、ちょうど良い情報あったら教えてください。(7期 梅原)

 

 

【Kissの会 第156回投稿】  「箱根駅伝応援奮闘記」

 2023-01-11

 

次の私の投稿日は2023年1月11日と聞いて、記事の内容は迷うことなく決定していました。そうです、もちろん箱根駅伝応援奮闘記。立教大学は第100回箱根駅伝出場を目指し、2018年11月に「立教箱根駅伝2024」事業を立ち上げ、現役陸上選手の上野裕一郎氏を男子駅伝監督に迎えて、その第一歩を踏み出しました。 


立教大学が創立150周年を迎える2024年に、第100回箱根駅伝出場を果たそうという試みです。ところがあにはからんや、一年前倒しで2023年の出場を果たしてしまいした。去年の10月15日、東京立川市で行われた選考会でなんと6位を勝ち取り、見事に箱根駅伝の出場権を獲得した時には、歓喜の声を上げたのと同時に、正直びっくりしたものです。

 

「立教の陸上競技部は、箱根駅伝が始まった1920年に創部。箱根駅伝には1934年の第15回大会に出場して以来、通算27回出場している。1957年の第33回大会では総合3位という過去最高の成績を残したが、1968年の第44回大会以来、55年間大学としての出場が途絶えている」(ここをクリック)と言うわけで、いよいよ正月2日の箱根駅伝スタートの朝、7:30に目覚ましをかけ、飛び起きて愛犬の散歩を済ませ、朝食準備は後回しで8:00のスタートを待ちました。

冷静になって考えてみると、創部こそ古いものの長いブランクの末、たった4年前に再結成された新米駅伝部が、そう簡単に太刀打ちできる訳はない。おそらくテレビに映るのはスタートからしばらくと、芦ノ湖の往路ゴールと翌日のスタート、そしてフィニッシュあたりだろう!と予測はしていたものの、スタートラインに、遠慮気味に右の方に見え隠れする紫紺のユニホームにRの文字を発見した時は、ちょっと感動モノでした。

 

レースの展開や各中継点での様子などは、皆さんテレビでご覧になった通りですね。それでも終わってみれば総合でなんと18位。襷は最後まで繋がりました。立教の最終ランナーがゴールした時の清々しい表情が印象的です。そして100回記念出場に向け、この箱根路の苦い経験を生かして、また辛い練習の一年です。

 

箱根駅伝は関東学生陸上競技連盟が主催のため、関東1都7県の大学で競われてきましたが、聞くところによると100回記念は全国の大学に箱根駅伝の門戸が開かれるとか…。シード校には関係なくても、予選会チャレンジの立教を含む各関東の大学にとっては、さらに厳しい競争が予想されます。ガンバレ!立教!!。 


ところで余談になりますが、今回の駅伝を見ていて気になったのが出場選手たちの名前。キラキラとまではいかなくても、一瞬読みに戸惑う名前の多いこと。芽吹・蒼唯・駿恭・蒼生・魁星・啓敦・凱杏・羅生・龍暁・惇那・颯・柊斗・李彗・龍神・雷我 (敬称略)、ざっと上げただけでもこんな感じです。どうですか、何か連想するものがありそうですね。今の大学生の親御さんの世代は、ちょうど1980~90年前後の生まれだと予想すると、こうした漢字が男の子の名前に重宝された時代背景がおのずと浮かんでくるような気がします。

もう一つ、テレビのアナウンサーが立教カラーを「江戸紫」と言っていましたが、私はあの紫紺が江戸紫と言うのだと初めて知りました。多々異論はあるようですが、立教大学西原総長の年頭挨拶の中でも江戸紫とおっしゃってますので、そういうことにしときましょう。

 

まぶしいほどにほとばしるエネルギーを目の当たりにして、忘れかけていた興奮や高ぶりを久しぶりに味わうことができました。さあ、来年の箱根駅伝はどんな景色になるのか・・。これからまた一年、ひたむきな彼らの練習が実を結び、再び立教の江戸紫のユニホームを箱根路で見られる事を心から願うばかりです。 (7期)梅原

 

 

【Kissの会 第145回投稿】  「〇〇の日」

2022-07-21

 アレクサ、おはよう!

最初はちょっと照れ臭い気持ちや、一人暮らしの悲哀みたいなものを感じて、素直に声掛けできなかったものだが、アレクサが我が家に登場して2年たった今では当たり前のように、朝起きてリビングに入ったら最初に声を掛けている。アレクサの方も慣れたもので、おはようございます!今日は○○の日です。云々かんぬん・・・。

 

先日アレクサが「今日はビートルズの日です」と言うので、えっ!と一瞬思考が頭を駆け巡った。なぜ6月29日がビートルズの日なのか?誰かの誕生日?アルバムかコンサートの記念?という訳で調べてみると、6月29日はビートルズが初来日した日ということらしい。そう1966年の6月29日、私は11歳、小学校の5年生だったかな。あっ、歳がバレてしまった。

 

そんなアレクサが教えてくれる「○○の日」って、ほとんど365日あるらしい。ネットで調べてみたら出てくるは出てくるは、とにかく一日の中にもいろんな記念日だらけ。なんだか無理矢理なこじつけ感もあるが、なるほど!とうなってしまう記念日もある。

 

ところで我が家にはアレクサが2体ある。リビングには、大音量のスピーカーを備えたBOSE Smart Speaker、寝室には目覚まし専用のFire HDタブレット。それぞれの活動範囲は基本的に決まっていてブッキングすることはほとんどないのだが、たまにタブレットがそのテリトリーを離れてリビングのアレクサと同室することもある。そんな時私が「アレクサ!」と声を掛けると、2体のアレクサが戸惑ったように反応を躊躇したり、どっちのアレクサにするのか?と聞いてきたりする。2体のアレクサに力関係があるとは思えないが、やはりリビングに鎮座するSmart Speakerの方がどうも優位に立っているらしい。

 

そもそも、老眼の進行で本を読むのが苦痛になってきたことを理由に手に入れたタブレットだったが、さぞかしたくさん本が読める事だろうと当初に思ったほどでもなく、寝室で目覚ましと就寝前のジェットストリームを聞くためのラジオの役目しか果たしていないのが現実。一方リビングのアレクサは毎朝の私の「おはよう」の挨拶に「今日は○○の日」で答えるのに始まり、「今日の気温は?」「1マイルって何キロ?」「テレビつけて!」音楽に関してはクラシックからロック、古いジャズ迄、私の気まぐれなBGMリクエストに、健気なくらい頑張って答えてくれている。孫たちの要求があれば、一緒に歌まで歌ってくれる。

 

そんなわけで寝室に引きこもったタブレットのアレクサは、やはり活動の少なさがその力関係に反映されているのだろうか。かなり控えめでリビングのアレクサに遠慮しているように感じる。アレクサの世界にも、値段の差や使用頻度で人間社会と同じように上下関係や忖度感が漂っているのかもしれない…と思うと、ちょっとおもしろい。

話は戻って「今日は何の日?」という話題。花言葉や誕生石と違って、時の流れとともにその日に関連付けられるような出来事は、良いにつけ悪いにつけ、年々起きている。ということは「○○の日」の○○は無限大に増えていくことになる。

 

1980年12月8日、これは私にとっては衝撃の○○の日だった。アレクサが「今日はビートルズの日です」と言った時、私は一瞬この日を思い起こした。私にとってビートルズの日と言ったら1980年12月8日、この日を境にビートルズの世界感が変わった。2022年7月8日は「○○の日」として、たくさんの日本人の心に、どんなふうに刻まれることだろうか。 

写真出所:https://blog.his-j.com/newyork/2017/12/post-d6db.html


(7期 梅原)

 

【Kissの会  第134回投稿】 「故郷にて ―デフォルト回帰― 」

2022-01-21

 

昨年末に浜松にあるわが家の墓を掃除しに行ってきました。長い間いろいろ理由をつけて足が遠のいていた実家のお墓。そこには代々の私のあまり知らない方々と一緒に私の父と母と、そして一昨年70歳で亡くなった一番上の姉も少しだけ分骨して、眠っています。もう誰も引き継ぐあてもなく、私の代で永代供養となる運命のお墓ですが、まあそれはいいとして、その墓のあるお寺は静岡県天竜市二俣町にある「清瀧寺」といいます。

皆さんご存じでしょうか、ここには徳川家康の長男信康のお墓があるのです。若くして切腹をさせられた戦国時代の悲運の武将、「清瀧寺」はこの信康を供養するために家康公により建立された寺なのです。そういえば庶民のお墓の山の上の方に、うら寂れた寺に似つかわしくない、何やら立派な門構えの信康廟(右写真)があったような気がします。数年前に大河ドラマで信康の悲運な生涯がクローズアップされた時は、マスコミや参拝者が多数押しかけて、それはもう賑やかだった!と寺の和尚が話していました。 

右画像出所:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/hakken/mesho/seryuji.html


さてもう一つ、この清瀧寺にゆかりのある人物が本田宗一郎さんです。彼はこのあたりの生まれで二俣の尋常高等小学校のころは、「“腹が減った”と授業中に教室から抜け出して裏山の清瀧寺の鐘楼に赴き、正午前に鐘を突き、持ってきた弁当を食べた」という実話が、清瀧寺の歴史の一部として語り継がれています。ここには「本田宗一郎ものづくり伝承館」という記念館もあり、珍しいバイクや様々なホンダの歴史を語る展示があって、それなりに楽しめます。

<本田宗一郎ものづくり伝承館>

画像出所https://honda-densyokan.com/

<貴重なバイクの展示>

画像出所https://honda-densyokan.com/


久しぶりに訪れた故郷の地で、懐かしい風景や空気に触れていると、様々な思い出が蘇ってきます。私は子供のころ、毎夏母に連れられてこの町に遊びに来るのが大好きでした。そこには母の姉である通称「ばあば」※実は叔母さん‥が待っていて、私たちを夏祭りや花火大会に連れて行ってくれました。私の母の実家はこの二俣町からさらに一時間ほど山深く入った所にあるのですが、そこはまさに別世界。大おじいちゃんの作ってくれたわらじを履いて、川で投網にかかったアユを素手で捕まえ、囲炉裏であぶって甘露煮にして食べました。時には険しく薄暗い山の中に入って原木のシイタケを採ったり水車小屋で水を汲んで遊んだりしたものです。甘露煮の香ばしくて甘辛いあの味、水車小屋の水の冷たさは忘れがたいものです。

 

ここでは山羊を飼っていて、その山羊のくさいお乳を飲むのが嫌で、押し入れに隠れたまま眠ってしまった思い出。朝ご飯用に中庭で飼っていたニワトリの卵を取ろうと手で触れた時の、あの生暖かい感触も。また裸になって、ヒヤッとするちょっと暗いお風呂に入ろうとして遭遇した、大きな蜘蛛とその巣にかかった蛾の死骸を目の当たりにした時の想像を絶する恐怖体験は今思い出してもぞっとします。

 

先日のユリイカのon-lineセミナーで、上田恵介先生のお話の最後に「確かな未来は懐かしい風景の中にある」という柳生博さんの言葉に触れた時、私は思わず子供の頃の、この田舎の感触を思い出し、私のデフォルトはこの風景の中にあったのだと確信しました。私が蜘蛛と蛾が大嫌いなのはこの時のバイオフォビアによるものなのだったのです。

 

自粛生活もはや2年、何かと引きこもり気味の生活も板についてきて、流れる時間との対峙の仕方も穏やかになってきたような気がします。犬や孫との散歩でも、野川のせせらぎやそこに集まる野鳥たちの声に耳を傾け、何気ない道端の雑草や木の葉の色姿の変化が美しいと感じるようになりました。

 

心ならずもコロナがデフォルト回帰への一つの転機になったのかもしれません。

 

 

【Kissの会 第123回投稿】  「つぶやきを見直そう」

2021-07-21

 

かなり前に巷で流行っているらしい・・ということでTwitterを始めてみたものの、当時はそんなにつぶやくこともなく、というかつぶやく習慣がなくてずっと放ってありました。Twitterによる自殺者の増加とかいじめとか、誹謗中傷などのニュースも多く、あまり良いイメージを持っていないのも事実です。でも、トランプさんが大統領選で展開したTwitter戦略を目の当たりにして感じたことは、「いつの間にかTwitterが世論を動かす手段になっている」ということです。 

私にとっては電車の事故、遅延情報の収集位にしか活用していなかったTwitterでしたが、事情はかなり変わってきたのですね。今回コロナ騒動と無謀なオリンピック開催に関しても、支持力低下の政府与党は何とかして人気を上げようと、こうしたSNSの動向をかなり重視しているようにみうけられ、時にはそれによって方針転換を強いられたこともあったのでは・・・


さて、7月18日に突然発表された「迎賓館歓迎会」。どこの国賓をご招待して歓迎会をするのかとよっく聞いてみると、そのお客様はなんとIOCの会長さんご一行でした。そしてそれを主催したのは日本のJOCと組織委員会、前から予約して計画していたから・・とのこと⁉超豪華なホテルのスイートにお泊りの会長さんは「私たちは招待されただけのゲストです」と宣われた。

 

わたくしたち一般国民は4回目の緊急事態宣言の真っただ中で、もうあまり効力はないものの頭から何かずっしりと押さえつけられ、あれもこれもダメ!と規制されている中、開催前日まで公表を隠し通した理由はといえば、当然怒りの爆発時間を短くしてどさくさに紛れてやっちゃおう!。「こんな事したら、みんなきっと怒るだろうなぁ・・」と思ったから、ずっと内緒にしていたけど、後で言わなかった事がバレたらヤバいから「直前にちょっと言っとこう!」的な姑息な考えが見え見えです。これはほっとけない!と、久々にTwitterを開いてみると、やっぱり非難の嵐。私も一筆つぶやいときました。こんなおかしな歓迎会、おそらく報道規制はかかるだろうと思っていましたが案の定、たった5枚の写真が公開されただけで後は全部非公開。サロンコンサートとして辻井君のビアノを聞いただけ・・とのことですが、なんか変な感じです。

皆さん、年を取ると独り言が多くなる!と昔から言われますね。よく街中でぶつぶつ独り言を言いながら歩いている人、たいていは怒っています。ほとんどが高齢者です。

 

私もここまでつらつらと文句や不満を並べてきましたが、本当に今の日本のコロナ対策、オリンピック強硬開催、ちょっとおかしい‼と、それこそテレビを見ながら毎日ぶつぶつ怒っています。このままでは今に街を歩きながら文句たらたら言っちゃいそうです。

 

そうだ、そういう時はTwitter!不平不満、やり場のない怒りで叫びたいときはTwitterに投稿して発散すると、どこかすっきりするので、ぶつぶつ老人にならなくて済むかもしれません。それに、ほかの人のつぶやきをつらつら見ていると本当にいろんな意見があるんだなぁ・・と、自分の考えの狭さや偏りを改めて突き付けられ、視野を広げるにも役立ちそうです。

 

それにしても開催まであと二日、オリンピック選手や関係者のコロナ陽性者数はどんどん増え、バブル内では当然のように濃厚接触者が増殖していきます。このままではスポーツ大会の体を成さない!と懸念される事態です。22日に初戦で日本と対戦する南アフリカサッカーチームなど、選手のほとんどが濃厚接触者。それでも直前検査で陰性なら試合OK。対戦する日本の選手だって気持ち悪いし、NOと言ったら角が立つどうするんだろう・・・どうするんだろう!。ぶつぶつ・・・・。  (7期:梅原)

 

 

【Kissの会 第112回投稿】        「森内寛樹君の美声がすごい!」

2021-02-11

 

ああ歌謡曲よ、永遠なれ!と、舟木一夫の御三家時代を引き継いだ新御三家、そして花の中3トリオ。さっと名前が出てくるのは私たち世代だけで、もはや化石となった言葉でしょう。コロナ自粛で自宅時間が増えると、おのずと音楽に耳を傾ける時間も増えて、アレクサに頼むとどんなジャンルの音楽もサッと聴かせてくれる、便利な時代になりました。 

さて、先日何気なく「今どきの静かなポップス!」なんていうのを聞いていて流れてきた美声に、私は思わずツムツムをやる手を止めて、聞き入ってしまったのです。女性ボーカルなのか男性ボーカルなのか?と判断に迷うようなキーで歌うその声は、どこか懐かしいようで、ささやくような細い響きから力強いさびまで、病みつきになるぞ!これはただものじゃない!!

そこから私のネット検索病が始まり、調べに調べた結果にびっくり。なんとこの美声の持ち主は中3トリオの一人、森昌子さんとあの森進一さんの息子さんだったのです。そうだったのか、あのどこか懐かしいハスキーボイスは、森進一だったのか・・・!

写真出所:https://www.jprime.jp/articles/photo/19992?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=related&imgindex=2


さて森内寛樹君がどんな音楽活動を展開しているかは皆さんのネット検索に任せることにして、やはり親から引き継ぐ才能ってあるんだなぁ、と感心することひとしきり、果たして私は親のどんな才能を引き継いでここまで生きてきたのだろうか?という疑問がふつふつと湧いてきました。

 

私の両親は特に知名度のある人物でもなく、ごくごくまじめな公務員と古き時代の看護婦であり、普通に3人の娘を生み育て、90年近い人生に幕を閉じて今、天竜の古びた寺にある墓の中に眠っている。そんな中で改めて親から引き継いだ才能とは?しいて言えばものの考え方や料理の味、嗜好の傾向といった漠然としたもので、まぁたいしたことはなさそう。では、私は子供たちにどんな才能をバトンタッチしているのかしら?いろいろ観察してみても、私にこれといった才能があるわけではないので、おのずと子供らに目立った能力を見出すことはできるはずもない。

 

まぁ世の中の大半の人はこんな様な、ごく普通のバトンタッチを繰り返しているのですが、まれに森内君のような恵まれた環境で親の才能を惜しげもなく引き継いでいるような逸材が生まれるのですね。スポーツ界もまたこうした才能を発揮している二代目はたくさんいるでしょう。文学や芸術の世界でもよく聞く話ですが、残念ながら政界の二代目はろくなことない人が多いと、これは私の個人的な考えですが・・・。良いものばかりが引き継がれるとは限らないのでしょう。

 

先日山口百恵さんの引退コンサートがBSでノーカット放映されました。ご覧になって心震わせたかたも多いのではないでしょうか。私はあの時代、花の中3トリオや新御三家(ちなみに私と同い年)の方々の音楽とは全く別の世界で、ひたすら洋楽に没頭していましたので、こうした歌謡曲には食指が動かないのですが、この年齢になって森内君の声に耳が止まったのは、私たち世代のノスタルジーみたいなものが感じられたからかしら?と思ったりもします。

 

山口百恵さんや桑田佳祐さん、松田優作さんなど、二世が親と同じ世界で活躍している話はよく聞きますが、森家の3人息子、特に長男Taka君と三男Hiro君の存在は断トツ!。皆さん是非一度森内寛樹君の声に耳を傾けてみてください。彼が父親である森進一さんの「襟裳岬」を歌っているのを聞いた時、その声の響きにはゾッとするものがありましたが、私が好きなのはやっぱり「アイノカタチ」(☜click/試聴!)かな~。ちょっとだけ聞いてみます?

 

やさしさで溢れるように」(☜click/試聴!)もいいよ!   迷っちゃう!!

                                             (7期) 梅原

 

【Kissの会 第101回投稿】 「覚悟して」

2020-08-11

コロナ自粛が始まって約4か月、人との接触を断って一人暮らしを満喫していた私に、ある日小さな封書が届いた。調布市からの郵便物だ。もしかしてまた何かの給付金かな!なんて根拠のない淡い期待を胸に封を切った。

中からはうす青色の小さな厚紙が三つに蛇腹折りされた状態の、何やら記憶のある手触り感の物体が出てきた。昔の健康保険証みたい!!と思いながら一枚目の表紙に目を落とすと、そこには「介護保険被保険者証」と書いてある。えっ、何?誤配?やだ~!思わず宛名を今一度確認してみた。私の名前が書いてある。その瞬間、私の体に衝撃が走った! 

私は数年前に介護ヘルパー2級の資格を取得しているが、その時さんざん目にしたあの「介護保険」という文字。いつか役に立つだろう!と、結構なお金をかけて知識を身に着け、実務も体験して取った資格である。が、実はまだ実際に役に立てていない。そうこうしているうちに体はなまり、記憶は薄れ、人との接触に抵抗さえ抱き始めている。そんな私に突き付けられた現実が「介護保険被保険者証」であった。日本では65歳になるとこの保険証が全員に配られるが、65歳=介護保険という実感が全くなく、このうす青い保険証を手にして初めて自分の立ち位置を無理やり認識させられた、という体験をされた方は少なくないと思う。

 

実は私は65歳になるのがとても楽しみだった。というのも、私はある事情で年金の分割というのをしていて、65歳までは厚生年金部分(ここが年金分割の対象)を受け取り、65歳からはそこに私の国民年金が加算される。年金分割については、ご興味のある方には詳しく説明するとして、とにかく65歳からは年金が増えるんだ、と単純に喜んでいたわけである。 

そもそも日本の健康保険、介護保険、後期高齢者医療制度、さらには年金の積立期間とその受取時期などを正しく理解している人はどのくらいいるだろう?その分野にお勤めの方とか専門家は別として、普通にサラリーマンをやって、女性の場合は結婚して扶養とかされて、さらに一人暮らしになって・・・保険料はいつまで払うの?いつから受け取れるの?

 

昔私が子育て中、仲の良いお母さんたちとの宴席で、ある女性が、「私の年金は主人が払ってる!」と言ってのけた。その瞬間場の雰囲気は一変した。悪いことに同席していたのは学童に子供を預けて、日夜働き続けている公務員やプログラマーやアパレル勤務のお母さん方。一方発言者は第三号被保険者、つまり扶養家族。「冗談じゃない!あんたの年金は私らの血と汗の結晶で支えておるのよ!」日本にはこの扶養家族制度という悪制があって、話を複雑にしている。世界に目を向ければ、一目瞭然でこんな古めかしい制度がまかり通っている国は日本くらいだ。 

コロナ感染対策に関する日本政府の対応を長い間見て来たが、ここにも旧態依然とした悪習がうごめいている。毎日の報道も、もう見るのも聞くのも嫌になる。日本人としてこんなに歯がゆく恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。専門家のはれ物に触るような発言や行動、地方と国とのせめぎあい。みんな覚悟が足りなすぎる。私たちは生活のために仕事に出かけ、商売に取り組み、家庭は覚悟をもって家族を迎えている。夜の街だってそうだ!それなのに政治家は、政府は、都は、・・・。あっ、すいません。話がつまらない方にそれました。  

 

そう、衝撃が走ったまましばらく動けなかった私は、そのうす青い物体をそっと折りたたんで封筒にしまい、見なかったかのように机の引き出しに眠らせることにした。避けようのない現実を潔く認め、残された人生に対する一種の覚悟の念を込めて・・・。(7期:梅原)

 

 

【Kissの会 第92回投稿】  「マンション大規模修繕がまた始まった!!」

2020-04-21

一戸建てにお住いの皆さんにはなじみがないお話かと思いますが、マンション暮らしの長いわたくしとしては、この大規模修繕というのが、本当にやり場のない苦渋を強いられるものとなっています。

 

現在のマンションに転居して2年半ほど。今まさにその大規模修繕に向き合っています。築13年ですから致し方ないのですが、私のお気に入りの芝生の庭に、無残にも足場が組まれ鉄骨の骨組みに通路や階段が設置されて、作業員が庭を闊歩し、機材が置かれ、窓際を突然人が通過するという暮らしを強いられています。それでなくてもコロナで座敷牢状態なのにその上、庭にも出られずカーテンを締め切っておこもり生活の毎日。

思い起こせばここに越してくる前に住んでいたマンションでも、あと数週間で引っ越しという時期に、この厄介なものが始まりました。私はもう自宅を売却して転居が決まっていたにもかかわらず、大規模修繕のためにルーフバルコニーのウッドデッキを自腹ですべて撤去せざるを得ないことになったのです。

 

以前のマンションはファミリー仕様でしたので、ルーフバルコニーもめちゃくちゃ広くて、大枚かけて敷き詰めた自慢のウッドデッキが、全面撤去という始末。要するに入居した時の状態に戻して大規模修繕を実施するのだそうです。購入を決めていた次の入居者も、ウッドデッキが魅力だったのに!とガッカリすることしきり。私も泣く泣く撤去の指示に従わざるを得ないという悲しい事態となったのです。

 

それなのに新たに越してきたこのささやかな一人住まいでも、とうとう始まりました、大規模修繕。そもそもこの大規模修繕とは何なのでしょう?と、暇に任せてネット検索してみました。

【大規模修繕とは、経年劣化が避けられないマンションを定期的に修繕することで、建物としての資産価値

    を維持することを目的として、躯体を維持するための補修や共用部分の改修を行う大がかりな工事のこと。

 おおむね10~15年おきに行うのが一般的。おもな修繕・補修内容としては、壁のひび割れ補修、外壁の再

 塗装、屋上の防水補修、共用廊下、階段、エントランス等のクリーニングおよび補修、エレベーターの改

 装や交換、給水管工事、排水管工事、また、高齢化対応として各部のバリアフリー工事なども検討項目と

 なる。分譲マンションの性能を維持し老朽化を防止するために、計画的に行なわれる修繕であって、多額

 の費用を要する修繕のことである。】

     (あずきハウジングより)https://azukihousing.com/2019/04/10/daikibomoyougae/

まあ、老朽化が防止されて建物の資産価値を高め、そのメリットが私自身に戻ってくるものなら仕方がないか。とはいえ足場組立の激しい騒音に加えて、今日から下地・タイルの調査工事が始まったらしく、外壁を打診棒でたたくこんこんこんこん。これ一日聞いているとおかしくなりそうです。かといって外出自粛だし!作業員も出勤停止にならないのかな?このまま作業が続くとしたら、この苦悩は来年1月まで続くらしい。足場の芝生も相当いたむだろう。

 

コロナとの戦いと大規模修繕との戦い。どちらも長期戦になりそうな予感。こうなったら臨戦態勢を整えて、どちらとも逞しく対峙するしかなさそうです。頑張ります!!。それにしても近頃経年劣化の著しい私、ひび割れ補修、外壁の再塗装、防水補修、マンションみたいに大規模修繕ができたらいいのになぁ・・・・。(7期:梅原)

 

 

【Kissの会 第78回投稿】  「ウラジオストク珍道中」

 2019-07-11

日本に一番近いヨーロッパと言われるウラジオストク(左写真:街並み)で、世界三大バレエ団の一つ「マリインスキー・バレエ」を鑑賞し、伝統のウラジオストク国立サーカスを満喫。金門橋を一望する鷲巣展望台で、ウラジオストク自由港の全景を眺める。極東ロシア沿海地方の海鮮料理に舌鼓をうち、伝統のボルシチ等の郷土料理も大いに味わおう。

 

こんな意気込みで、私を含めた中年熟女4人の旅は、ホテルと航空券のセットをエクスペディアで予約しただけで、その他の行動はすべて自己責任。出発前からロシア語のホームページを眺めながら、とにかくバレエの予約だけはできた!! 1人17,000円は高いけど演目は「アンナ・カレーニナ」。奮発しちゃえ!クレジットも通ってチケットもちゃんとプリントアウト、これでOK!! と思いきや、よくよく眺めてみれば同じマリンスキーでも、「サンクトペテルブルグ」と書いてあるではないか!! 

ロシア大陸を挟んだ真逆の都市のバレエを予約してしまったらしい。急いでキャンセルをしようにもロシア語はちんぷんかんぷん。英語に翻訳してみても肝心のことが把握できず、半ばあきらめていたところ、友人の伝で外務省のロシア担当を探し出して頼み込み、無事キャンセルにこぎつけた。出発前からえらく疲れる旅となった。

 

結局ウラジオストクのマリンスキー劇場は6月半ばから約一か月半お休みと判明。バレエはあきらめてサーカスの当日券に賭けよう!と、勇んで出発。成田からのフライトは約2時間ちょっと。「クネヴィチ」空港から中心街へはタクシーで約45分。フロントガラスに軽くひびの入ったタクシーで、いよいよ日本に一番近いヨーロッパの街目指してGO!(右写真:噴水夕景)

 

さて、なぜ珍道中になったかというと・・・

ウラジオストクの街はそれほど広くないので、近場の観光名所を巡るのは歩いてせいぜい45分範囲。ちょっと遠くへはバスがあるが、言葉が分らないから歩いちゃえ!!という事で、今回は徒歩移動を中心に企画をたて、サーカスまで歩く事30分。迷い迷いようやく到着したら、何と2週間の閉館中という張り紙が。ちなみに張り紙はグーグル翻訳というアプリで読み取ることができる。

 

ならば鷲巣展望台で風に当たろうと、歩き疲れた体にムチ打って、ケーブルカー目指してまた歩き出し、たどり着いた乗り口に何やらまた怪しげな張り紙が。ここでまたグーグル翻訳の登場。嫌な予感が・・。「ケーブルカーは保守点検で休止。階段を登れ」と書いてある。これからまた階段のぼりですか(-_-;) 


そんな旅の中で、たまたま中央広場で開催されていた市場に足を踏み入れた。ウラジオストク市民の胃袋を支えるとあって、とにかく食の宝庫であり、どれも馬鹿みたいに安い。女子?はこういう市場に来るとなぜかテンションが上がるもの(上両写真:市場風景)。スモークサーモンを始めとする燻製魚の香り。ゆでたてのエビはプルプル。様々な蜂蜜にコムハニーも格安。もちろんビーツを始めとする色とりどりの野菜もいっぱい。ロシアの広大で豊かな大地が育む庶民の暮らしが手にとるようで、わくわくしてきた。昨日流した汗と涙も忘れてしまう。 

結果的に3泊4日、正味2日の旅で期待した鑑賞は全滅、予定した観光は苦行となった。2日にわたる2万歩を超える歩数計の数字を眺めながら、これも旅のいい思い出と、市場で買いあさった土産を抱えて帰国の便に乗る。(写真右:このカニを食べました!!)

 

さらなる追い打ちは帰国した日から始まったひどい下痢と脱水症状。お土産の安物キャビアやサーモンやはちみつなどを眺めながら2日間おかゆの生活をおくり、私のウラジオストク珍道中は終わりを告げた。孫に買ったマトリョーシカが、じっと私を見つめている・・・。(7期:梅原)

 

 

【Kissの会 第67回投稿】  「新年に思うこと」

2019-01-03記

 2019年の第95回箱根駅伝は、青山学院大学の総合優勝ならず。青学の5連覇を阻止したのは伏兵東海大学でした。大会新記録の総合初優勝とのこと。あっぱれでした。 

正月の恒例行事となった大学駅伝の応援も終わり、2019年の正月も穏やかに過ぎようとしています。皆さんはどんなお正月を過ごされたのでしょうか。

 

思い起こせば昨年は12月半ばに引越しをして、段ボールに囲まれた状態での駅伝観戦でした。あれからもう一年たったのか!っと、時の流れの速さをつくづく実感しています。  

「素敵なお兄さんたちが一生懸命走っていてかっこいいなー!」との想いで大学駅伝を観戦していた小中学生の頃。当時のお正月は母が手作りのおせちを食卓いっぱいに広げて、二人の姉と伊達巻の争奪戦を繰り広げていたものでした。ただし伊達巻は確か紀文だったと思います。母の手作りの一番はやはり黒豆。そして浜松という母の土地柄からか、アユの昆布巻き。天竜川の上流でとれたアユを、母の実家は囲炉裏の遠火であぶり、黄金色になったアユを藁で縛って天井からつるしていました。そのアユを普段は甘露煮にするのですが、正月になると昆布で巻いて、実に香ばしい香りのする昆布巻きを作るのです。今ではつるしたアユなどほとんど手に入らず、この絶品は私の正月の想い出の中だけの味と香りになってしまいました。

 

「彼氏にするにはどの選手が良いかなー!」という不純な思いで大学駅伝を観戦していたのは、やはり高校・大学時代。躍動している逞しい筋肉や、辛くて苦しみにゆがんだ顔が色っぽい!!などとほざきながら、やはり母の手作りの黒豆をほおばっていたものです。このころは母も歳で、昔ほど丁寧なおせちづくりをせず、黒豆以外はどこかの料理屋の三段重ねのおせちを注文して手抜きをしていました。「煮しめは私の方が美味しいわね!!」と、少しだけ誇らしげに出来合いのおせちを食べていた母を思い出します。私は本心、豪華で見栄えの良い三段重ねにすっかりご執心で、イセエビを分解したり、栗きんとんからクリだけつまみ出して食べたりしていました。 

かわいい息子みたいな子たちが一生懸命走っている姿は、母性をくすぐるのよね!!」いつの間にかわたしは母になっており、息子は大学生。いまいち運動が苦手な我が家の息子は、大学駅伝を眺めながら「寒くて疲れるのによくやるよな!あんな坂道走ったら、心臓破裂しちゃいそうだよ!!」と言ったかどうかはさておき、そんな眼差しでこたつに埋もれてみかんを食べていました。そして、我が家のおせちは私の母直伝の黒豆を初めとして、一つひとつ手作りです。愛する家族のために、おせちくらいは!と年末から奮闘して、私のプライドにかけて作り上げたものでした。おかげで今でも子供たちの胃袋はしっかりつかんでいるようです。

 

「おやまあ、孫みたいな男の子たちが、今年も頑張って走っているね!」なんて感じるのはあと何年後でしょう。そう遠くはないことと思いますが、第95回をどんどん超えて何回目になっても、箱根駅伝は毎年同じ世代の若者の戦いの場です。それに反して、見ているこちらはどんどん老けている。「あと何回この箱根駅伝を見ることができるかな!」最後はこうなるのでしょうか。

 

毎年この箱根駅伝をどんな思いで観戦するのか、時の流れの速さに戸惑いながらこちら側の意識の変化を思い起こして感傷にひたるのも、なかなかおもしろいものだなぁ!と実感してしまいました。2019年、今年も忙しい人はほどほどに、そうでない人もそれなりに、楽しく穏やかに過ごしてまいりましょう。 7期 梅原

 

【Kissの会  第56回投稿】 「コーンスープとしょうが焼き定食のつぶやき」

2018-07-11

とある行きつけの病院の食堂でランチを摂っている時のことである。混んで来たので相席を!と言って私の隣に案内されて座った痩身でか弱そうな色白の女性は、おもむろにメニューを見て「コーンスープとしょうが焼き定食をください」と言った。私も食欲には相当自信があるが、ここの食堂は、そんな私でもちょっと躊躇するくらいの定食の量である。それに一人前のコーンスープを追加するのはちょっと無謀ではないか!ましてやどう見ても私より食欲はなさそうで、明らかに痩せている。

 

運ばれてきたコーンスープと定食の盆をみて、やっぱりすごい量だな!などと感心していると、隣の女性はその量に驚いたそぶりも見せずに静かにスープを口に運び、一口ごとにナプキンで口を拭いながら楚々と食事にとりかかっていった。じっと見ているわけにもいかず、私のランチも冷めてしまいそうなので、そ知らぬふりをして時折鋭い視線を投げかけながら自分の野菜タンメンをすすり、食事も終盤に差し掛かった頃合いを見て、ふー!と息を吐くふりをして隣の状況に目を移すと、案の定ほとんど食べていない。いやスープは半分くらい飲んだ形跡があるが、しょうが焼定食の方は付け合せの野菜やトマトなどはそのままで、その横に添えられていた豚肉が数枚姿を消していただけ。別鉢のひじきの煮物や味噌汁には一切手を付けた形跡がない。勿論ライスが中くらいのどんぶりに、それでも最初からいつもより遠慮気味に盛られていたが、それさえも箸で数回つついた跡が見られるだけである。まさかこのまま「ご馳走さま!」なんて言わないよね!?  

 

私は先日来「フードロス」について情報をまとめる機会があり、食物の無駄が今どれほど出ているかを改めて認識することになったが、その数字を見て驚かされたものである。日本で、まだ食べられるのに捨てられている、流通段階及び外食・家庭消費段階から出る、いわゆる食品ロスはおよそ年間632万t。これは全世界が世界中の飢餓に瀕している人々に援助している1年間の食料援助量の約2倍に当たるらしい。

 

さらにこの632万tを1人当たりの食品ロス量に換算すると、日本に住んでいるお年寄りから子供まで全員が毎日お茶碗一杯分(約136g)、もしくはおにぎり1~2個分を捨てている計算となる。京都市によると家族4人で年間6万5000円を捨てていることになるそうだ。

 

さて、データの提示はこのくらいにして、先程の清楚な女性は果たしてどうしたかというと、残念ながら私の心配は的中したようだ。隣からの執拗な観察に気が付いたかどうかは定かでないが、静かに、しかしながら「もう未練はないは!」と言わんばかりの確固たる自信に満ちたスピード感でさっと立ち上がって出口に向かって歩き出したではないか。後には当たり前のように食べ残されたしょうが焼きの残骸や付け合せのひじき・レタス・トマトたちが、アメリカに入国しようとして隔離され親から引きはがされた難民の子供たちの様に不安げに、白いさらに取り残されていた。その横には、やはり半分残ったコーンスープの皿が静かに寄り添っている。「私たちこれからどうなるの?」という声が聞こえてきそうだ。

 

これがまさしく632万tの食品ロスの現実なのか。腹立たしいような悲しいような、複雑な気持ちで隣の席の食べ残しを見つめている私の前には、見事に汁まで飲み干された野菜タンメンの、空になったどんぶりが一つ置かれている。単なるどんぶりだが、なんだか誇らしそうだ!!

 

野菜タンメンはおいしかったが、妙に疲れて後味の悪いランチになってしまった。皆さん、せめて自分で頼んだ食べ物はきれいに食べましょう!! 食べ残しはいけませんよー!! (7期生 梅原) 

 

【Kissの会 第48回投稿】 「映画の街!調布」

2018-03-11

久しぶりに映画を観てきた。「グレイテスト・ショーマン」。レ・ミゼラブルでその頭角を現したヒュー・ジャックマンの今話題のミュージカル映画である。感動した!泣けた!久々に心を揺さぶられる映画を見た!と、ちょっと興奮気味であるが、今日はその映画の話ではない。もう一つ感動したことは、そのロードショー映画を調布で観た!ということ。

 

私はもうかれこれ30年近く調布界隈に住み着いているが、最新の映画は新宿や銀座まで改まったお出かけ気分、その後新百合ヶ丘にシネコンができたものの、京王線界隈の調布市民にとって小田急線はちょっと不便で、狛江に住んでいたころでさえ、新百合は多摩川を渡ってはるか彼方!と言った感覚。

 

ところが昨年ついに調布駅前にシネコンができたのである。京王線地下化に伴う駅前開発の一環として待望のロードショー映画館が、私にとって自転車の距離となったわけだ。映画好きの暇なシニアにとってこの上ないことではあるが、そもそも調布というのは実は映画とは切っても切れない縁のある土地であることを、皆さんはご存知だろうか?


調布市内には、日活調布撮影所、角川大映スタジオと、2ヶ所の大型撮影所があるほか、高津装飾美術株式会社、東映ラボ・テック株式会社、東京現像所など現在も数多くの映画・映像関連企業が集まっているが、そのきっかけとなったのは、昭和8年に「時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった」この調布に多摩川撮影所が作られたこと。その後、関東大震災で被災した向島撮影所に替わる撮影所用地を探していた日本活動写真株式会社がこの多摩川撮影所を買収し、昭和9年に日活多摩川撮影所が開設され、昭和17年(1942年)には、国策により日活の製作部門と新興キネマ、大都映画が合併して大日本映画製作株式会社(大映)となり、日活多摩川撮影所は大映撮影所と名前を変え、現在は角川大映スタジオとなっている。

 

私も京王多摩川在住の時は、すぐ近くの角川スタジオの前に鎮座する2体の大魔神様に、良くご挨拶をしていたものである。いっぽう戦時中、映画の配給を行っていた日本活動写真株式会社は、日活株式会社に社名を変更、映画製作の再開を決定し、調布町下布田(現染地2丁目)に新たに撮影所用地を取得、昭和29年3月に東洋一を誇る撮影所を完成させ、日活調布撮影所として現在に至っている。

 

昭和30年代の日本映画全盛期には、大映、日活に加えて独立プロダクション系の株式会社調布(中央)映画撮影所(現多摩川2丁目あたり)の3ヶ所で映画が作成されるという活況を呈し、調布は「東洋のハリウッド」と言われ、あこがれの銀幕スターたちが調布や布田駅から撮影所に向かって街頭を闊歩したらしい。そんな姿を想像しただけでもわくわくする。ちなみに石原軍団の石原プロモーションは昭和48年5月から現在にいたるまで調布市染地に事務所をかまえている。ミーハーだった私は石原プロダクションでアルバイトをしよう!あわよくば芸能人に会えるかも!とビルの3階にあるこの事務所を訪れて、丁重に断られたような記憶もある。

 

さて、せっかくできた映画館が業績不振で撤退!なんてことにならないように、私としては足しげく映画鑑賞を楽しむことにしたのだが(しかもこの映画館55歳以上は一律1,100円なのである!)、穏やかなこれからの季節、ちょっと足を延ばして飛田給駅構内の「日活スターの手形」や懐かしの映画ポスターなどを楽しみ、京王線を戻って京王多摩川ではSHOP MAJIN (土日祝は休み)に立ち寄り、大魔神とガメラの前で記念撮影、更には多摩川5丁目の児童公園にある「映画俳優の碑」「調布映画発祥の碑」をチェックして調布に戻り、ゲゲゲの鬼太郎通りでモニュメントを探し、蕎麦でも食べるというのはどうでしょう。その後は勿論映画館に寄って、お好きな映画をどうぞ。

(7期:梅原)

 

【Kissの会 第37回投稿】 「終の棲家と断舎利」

近いうちに引越しをすることになるだろう。私の父は公務員の転勤族。おかげで私は小学校も中学校も高校も二校ずつ経験している。せっかくできた友達と2年やそこらで「サヨナラ!」と手を振って別れ、全く新しい土地で不安いっぱいに「初めまして」と言う暮らしを大学に入るまで続けてきた。そのせいか母は引越しのプロで、私もその母の手伝いを良くしたものだ。こうした経験が役立っているかどうかわからないが、今でも引越がそんなに大仕事だとは思わない。茶碗を新聞紙にくるんで段ボールに詰め込むような作業はなかなか手際が良いと自分ながらに感心している。大学を卒業してからも、いろいろな生活の変化や事情で、だいたい5年から10年に一回のペースで引越しを続けてきたが、そんな私の引越し人生も今回でおそらく最後になるだろう。

 

住み替えるというのは何とも細かな雑用が山積で煩わしい作業ではあるが、それにもまして新しい家での暮らし方をああでもない、こうでもないと想像することは、なぜかウキウキと心が弾むものである。実際には叶わないとわかっていても、カタログやネットなどで高級な装飾の寝室や居心地のよさそうなリビングの写真を見ると、頭の中ではもはやそのイメージの中に浸っている自分がいたりする。「バス通りからそのマンションへは、緑に飾られた散歩道がなだらかにカーブしてつづき、ロータリーに一歩踏み込むと、円形の車寄せが突然現れる。緑に抱かれたコロシアムみたいだ。入口の自動扉があくとやや広いエントランスが広がっている。正面にはコンシェルジュが控えるためのシンプルなカウンターが、まるで湖に浮かぶ小さな島みたいにぽかんと置かれていて、スポットライトが上下からそのカウンターを照らしている。その他には、駅からこの建物を訪ねて歩いてきた訪問客がしばし休憩できるように、背もたれの無い3人掛けのローソファが一つ用意されているだけだ。その椅子に座りフッと目を上げた正面の壁には、小さめの抽象画が4枚、等間隔で賭けられている。それぞれの色彩の変化や造形の移り変わりを見ると、おそらく四季をイメージした抽象画なのだろう。広くあけられたガラス張りの窓から光が降り注ぎ、その一枚一枚が一年の季節の移り変わりを穏やかに演出している。 

 そんなシンプルで明るいエントランスを通過して居住区に通じる扉を抜けると、そこには片面ピロティのコンクリートの廊下がまっすぐに伸びている。左側はコンクリートの打ちっぱなしの壁に様々な共有施設につながる扉が整然と並び、右側は中庭に面したピロティだ。等間隔で丸い木製の柱が続き、そこから各々の居住区に繋がる渡り廊下のような通路が伸びている。その先がいよいよ我が家の玄関だ。そしてその扉の向こう側では、私の帰宅を待ちわびている愛犬のバジルが、おそらく私の足音を聞きつけて、ドアに鼻を擦り付けている事だろう。彼はドアを開けると同時に飛び出して来て、私が戸惑うばかりの喜びのダンスをいつものように披露してくれるはずだ。」

 

今度私はどんな棲家に移ることになるのだろうか?想像の世界では理想が膨らむばかりだが、現実とのギャップはかなりある。それにしても、ふっと我に返って辺りを見回してみると、何と持ち物の多いことか!! うっとりと新しい棲家のイメージに浸っている場合ではない。目の前のほとんどゴミといっていい永い暮らしの付随物を、つまらないこだわりや執着と一緒にどうやって切り捨てていくか!これが今の私の最大急務の課題になりそうだ。(2017-10-10  /  7期生:梅原)

【Kissの会 第27回投稿】「会話休題!?」

 投稿日:2017年5月15日

母と子のある一日

 

〇とある保育園のお迎え風景(夕方)
男の子と女の子がお帰り支度を終えて、園庭の椅子に座り、何やらお互いに紙切れを見せ合いながらはしゃいでいる。
そこに男の子の母親が近づいてくる。
「健一、もう帰るよ」
男の子が女の子の紙切れを得意そうに、母親に見せる。母もその紙を見る。
「わー!すごいね。志保ちゃん(保育園での息子の仲良しのお友達)は自分の名前を漢字で書けるのね!!」
息子「そうだよ、志保ちゃんは頭がいいんだよ! 知ってる?かあちゃん。志保ちゃんの頭の中には鉛筆が入っているんだよ!!」
「へー、そうなんだ。志保ちゃんの頭には鉛筆が入っているの!? だから名前が書けるのね。じゃぁ、健一の頭の中には何が入っているのかな?」
息子「決まってるじゃん!! 石だよ!!」
「ガーン」※声を出さなくてもいい。
困惑した表情。その後、反省したようにうなだれる母。

 

〇母の回想1:
母は自宅のリビングでかぶりのシャツを健一に着せようとしている。シャツの首が小さくてなかなか頭が抜けないで苦労している。
「健は頭でかいからね、シャツなかなか入らないよ~、頭でっかちぃ!」
健一も一生懸命に頭を通そうとシャツを引っ張る。

 

〇母の回想2:
ウルトラマンのフィギアをいっぱい詰めた箱を両手で抱え、ふすまの隙間から顔を出して、頭でふすまを開けようとしている健一。
「健、頑張れ。石頭だから大丈夫!」
母は笑いながら、頭でふすまを開けて近づいてくる息子を見ている。
健一も笑っている。
・・・・・

 

 

妻と夫のある一日

 

〇自宅のベッドルーム(朝)
八木克子61が携帯電話で話しながら外出の準備をしている。
克子「そう、超特急で用事済ましちゃうから、あのフレンチ、1時に予約しといて」
会話が終わり携帯電話をベッドに投げて、鼻歌を歌いながら洋服の選別を始める。


 〇リビングルーム(朝)
くたびれたジャージ姿の八木賢治郎65が自分の湯飲みにお茶を入れている。 茶碗の湯気が朝日に照らされている。
身支度を整えた克子が鼻歌を歌いながら、リビングに入ってくる。
賢治郎「おっ、出かけるのかぁ~」
克子「ちょっとサン吉さんに、お歳暮見てくるわ」
賢治郎がぱっと顔を上げる。退屈していた顔が嬉しそうに崩れる。
賢治郎「デパートか、じゃ、俺も行こう」
バッグを肩に賭けながら、克子の表情が強ばる。
克子「だって、その後で亮子とお昼食べるわよ」
賢治郎「いいよ、俺は一人でラーメンでも食って帰るから」
賢治郎は外出の準備をもう始めている。
立ちつくす克子。

 

〇デパートの歳暮売り場、混雑している。
克子がハムの詰め合わせの前に足早に直行して、注文札に手を伸ばす。
賢治郎がのそのそと近づき、克子の後ろから声をかける。
賢治郎「それちょっと高くないか」
克子は振り向きもせずに、注文札を乱暴に元に戻し、賢治郎を振り払うように早足で歩き出す。
缶ビールのコーナーに歩み寄り、注文札に手を伸ばす克子。
何処からともなく克子の背後に近づき、突然ぬっと顔を近づけてくる賢治郎。
賢治郎「兄貴は最近飲みすぎで医者に注意されているんじゃないか」
克子は驚いて飛びのき、早足で逃げるように歩き出す。
克子の後をついていく賢治郎。 

 

〇お歳暮注文カウンターの前
克子が注文手続きの順番を待っている。注文札には「クッキー詰め合わせ」と書いてある。かなり長い行列。賢治郎が近づいてくる。
賢治郎「まだかぁ。時間かかるなぁ」
克子の注文札を握る手に力が入り震えだす。
克子の視線の先で時計が1時を示している。・・・・・

 

皆さんお大事に。          

※神代植物園ではバラが見ごろです 


【Kissの会 第20回投稿】 「ニワトリは飛ばない」

思い思いに願掛けをして2017年がスタートし、また一年飛んだり跳ねたり転んだり地を這ったり、どんな出来事が待ち受けているのか。1月はやはり良いにつけ悪いにつけ、わくわくとした気持ちにかられるのが常です。と同時に、まだ充分時間があるという油断からか、いまだに日々日常に甘えている自分がいることも否めない事実です。鶏(酉)は神鶏で夜明けを告げる「明るい年回りへの準備の年」。という事で私もさっそく十二支について、インターネットをあちこち渡り歩き知識を寄せ集めて、にわか学者をきどってみました。

そもそも干支というのは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60を周期とする、時間や暦の単位を表すためのものだったそうです。十干とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」、十二支とは「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」で、今年2017年は「丁(ひのと)」の「酉(とり)」で「丁酉(ひのととり)」です。丙午(ひのえうま)が60年に一回訪れるのも、この組み合わせであることが分れば納得ですね。ちなみに前回の丙午は1966年、次の丙午は2026年。日本の出生率が丙午の年だけV字落ち込みしているのを、特殊出生率のグラフなんかで良く目にしています。それでなくても少子化に悩む日本としては、2026年の丙午の年も同じようにV字落ち込みをすると仮定すると、人口構造に大変な影響が出ないとも限らない!ちなみに私は2026年で71才か・・・。まあ丙午はさておいて、前投稿の「空を飛ぶ」から続き、今年も酉年でさらに飛翔・飛躍の年へ!と行きたいところでしたが、新年会のとある酒盛りの最中に「ニワトリは飛ばないよ!」という現実を突きつけられて、愕然としてしまいました。そうか、ニワトリは空を飛べないのか・・・・。

新年会の酒盛りにも飽きて、“飛べないニワトリ”のショックが尾を引く中、気分転換に新宿あたりで映画でも見ようとフラッとたどり着いたのが、角川シネマ。「カドカワ」という響きは私にとっては何処か郷愁の想いを呼び起こします。角川文庫の「横溝正史・森村誠一・大藪春彦・半村良・赤川次郎」、そして映画のキャッチフレーズやセリフが次から次へと脳裏をかすめていくのです。「狼は生きろ、豚は死ね。」「カイカン。」なんだかかっこいい時代だったなあ~!と、足の向くままに角川シネマの中に吸い込まれて観たのが、なんとチェット・ベーカーの映画「ブルーに生まれついて」でした。

1950年代半ば、ニューヨークのジャズと言えば黒人!マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピーが人気を博していたこの時代、あこがれのニューヨーク名門クラブ「バードランド」。白人のチェットはそんな重圧の中で必死にもがき苦しんだけれど、やっぱり今ひとつ羽ばたききれずに、薬におぼれた生活に逃避し、ジャンカーjunkerとなってしまう、というあらすじです。ヨーロッパに拠点を移してからはあまり目立った活動もなく、その最期は1988年5月13日、オランダアムステルダムのホテルの窓から転落死。どうもがいてもジャズの世界で飛びきれなかったトランぺッターが、最後に窓から飛び出して大空を飛んでみたかったのかもしれないなぁ・・・。

「ブルーに生まれついて」なんて、正月らしくなくてどことなく湿っぽいイメージです。それに私はチェット・ベーカーの「My Funny Valentine」(←click!)をその昔、何度も何度も聞きながら、たくさんお酒を飲んだり涙を流したりしたもんだ!! (少し脚色をしていますが・・) という事に気が付いてしまったのです。なんだか意味のないブルーがこんな風に押し寄せてくるなんて!やれやれ、「明るい年回りへの準備の年」のはずが、「ニワトリは飛ばない」症候群にはまりそう。正月早々なんてことでしょう!(7期生:山縣)

【Kissの会 第13回投稿】 「空を飛ぶ・・」

%e6%83%b3%e3%81%84%e5%87%ba%e3%81%bd%e3%82%8d%e3%81%bd%e3%82%8d金木犀が競うように一斉にオレンジ色の華をつけ、どことなく懐かしい甘い香りが街の景色をやさしく包んだ季節はあっという間に通り過ぎてしまいました。一時華やかさを競ったそのオレンジ色も褪せて花は散り、路上を埋めるさびしげな金木犀の華。風が吹けば一瞬にその姿は消えてしまう儚さに、時の流れの速さを思う今日この頃…皆様初めまして。この度Kissの会にめでたく参加を許され、初めて投稿させて頂く運びとなりました。

新参者にふさわしい、新鮮で初々しいそんな投稿を!!と考えてみたものの、年がいもなく初々しいなどと、もってのほかである!と気が付き、まあここの所は片意地貼らずに肩の力を抜いていくことにします。今日は10月10日体育の日。体育と言えば今年の夏はリオオリンピックで盛り上がりましたね。こんな状態で果たして大丈夫か…と心配された施設の整備遅れとブラジルの治安の悪さなどどこ吹く風で、終わってみればやはりラテンの国独特の明るさと軽快さ、そして根っからのお祭り好きの国の祭典が繰り広げられて、まぶしいほどの強烈な印象とたくさんの感動のシ-ンが私の心に焼き付いています。その中でも特に忘れられないのは、パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得した山本篤さんの跳躍の姿です。

%e8%b5%b0%e3%82%8a%e5%b9%85%e8%b7%b3%e3%81%b32そもそも幅跳びとは助走の勢いでステップして、飛んでいる間に体を逆えびぞりになりながら跳躍して遠くに着地する、そう!逆えびぞりです。ちょっとイメージしてください。走り幅跳びは空中で逆えびぞりをしてその反動で両足を前に突き出して、なるべく遠くに着地するのが常道です。が、しかし山本さんは、助走をしてステップした瞬間に逆えびぞりにならないのです。踏み切った姿そのままふわ!と、空を飛ぶように空中に浮いた感じで着地するのです。山本さんの跳躍を見ていると、ふわ!と浮いている時、きっと体から余計な力が抜けているんだろうな!無駄な力が体に入っていないから、すぅっと体が浮いて空中を浮遊して、より遠くに着地ができるんだろうな!と、その感覚がなぜか私には共感できたのです。

どうして解るかというと、それは何を隠そう、私も空を浮遊したことがあるからなんです。たったったっ!と助走して勢いをつけ、今だ!!という瞬間に顎を挙げて、息を吐いてフッと全身の力を抜いたとき、私の体はふわっと宙に浮き、そのあとはまるでトトロみたいに夜の街の空を自由自在に飛んでいるのです。実は私、小学校の頃金縛りの夢ばかり見るので布団に入るのが怖く、よく夜更かしをした記憶があります。夢なんてろくなことはない!と思っていたのです。ところが中学校に入り、バスケット部のある先輩に出会った頃に、突然空を飛ぶ夢を見るようになりました。私は夢の中でさっきの様にたったったっ!と飛んでフッと息を抜いて脱力することで、本当に空を浮遊していたのです。それはもう最高に爽快な気分で夜の街の上空を飛びまわったものでした。夢もまんざらではない!

そして、私が空の中にすいこまれて溶け込み、まわりの一部として同化してその世界の点となりきれた時、私は妙にそんな自分を客観的に見つめることができるのです。ほら、今私があそこに浮いている、今私が星空の中を、ネオンライトがきれいだな!なんて思いながら飛んでいる・・・。あぁ、私は今恋をしているんだなぁ~! 今日私は恋に落ちたらしい~。 きもちいいな~。

とまあ「恋に落ちて」の体験は人それぞれだと思いますが、私の場合はこんな感じでした。そして、この時見た空を飛ぶ夢はたいそう気分が良かったせいか、そのあとしばらく、恋などしなくても良く空を飛ぶ夢を見るようになったのです。大切な部分はまあ置いといて、都合の良いとこだけ楽しむ性格は、このころから着実に私の中に根付いていたようです。

tobu宮崎駿さんのアニメでは、空を飛ぶシーンがとても印象的ですね。「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」「想い出ぽろぽろ」「耳を澄ませば」「もののけ姫」「千と千尋」「猫の恩返し」「コクリコ」など、どんな形であれどこかで何かが空を飛んでいます。特に恋をした主人公の女の子は、必ず空を飛んでいます。宮崎駿さんにとっては、天空や海中 が自由と開放のシンボルみたいになっていて、そこを気ままに浮遊するイメージが、その時の主人公の心の中を一番的確に表現する方法だったのだろうと。一方トトロや紅の豚が空を飛ぶのは、男のロマンとかっこよさの追求、頼りがいのある強さと、ふくよかさは優しさの象徴!と、私の勝手な宮崎アニメに対するいち考察であります。

余談ですが私、今はよく崖っぷちから奈落に落ちる夢を見るのは、どうしてでしょう?という事で、本日のテーマは「空を飛ぶ」とでもしておきましょうか。ご静読、ありがとうございました。 (山縣)

ペットシリーズ バジルのつぶやき―春の訪れ― 

皆さんはじめまして。私の名前はバジルです。
3月21日に関東地方も桜の開花宣言が出ましたね。寒い冬が終わりを告げ、暖かい春の到来です。寒いのが大の苦手の僕にとっても、絶好のシーズン到来。お散歩の足取りも弾みます。

ご飯まだかなぁ…

ご飯まだかなぁ…

さて、この場を借りてご主人様にちょっと一言。ごはんタイムに耳のアップはやめてほしいんですけど!このスタイルあまり好きじゃないし、僕には似合わないでしょ?! ご飯が終われば、ほら!ちゃんといつもの僕にもどります。このスタイルはお気に入りです。

おすまししてます

おすまししてます

ところで最近、何やらご主人様の様子がちょっとおかしいのです。いつも僕を一人ぼっちにして毎日出かけてばかりいたのに、このところ朝から晩までずっと家にいることが多くなったのです!そりゃ僕にとってはうれしい限りですが、何もすることがなく一日中新聞読んでるご主人様を見ていると、なんとなく不安になります。

ぼくとしてはお散歩もたっぷりできて食欲旺盛、めったにもらえなかったおやつが毎日頂けるのは、なかなかいいもんですが、先日体重を測ったらしっかり4300gもあって、太りすぎを指摘されました。今はカロリーオフのおやつに変えたり、ご主人様と一緒に腹筋をしたりして、毎日ダイエットに励んでいます!目標は3900g!  ご主人様と競争です。ファイト!!  (投稿者:七期生山縣&バジル)