Ishimakiの投稿

【Kissの会 第180回投稿】  「読むこと、書くこと、感じること」

 

 ある日の午後、書棚の片隅にある白いホルダーが目に留まった。開いてみると「RSSC:自分史講座(2014年)」の資料一式。担当講師は内海靖彦先生。7月の最終原稿提出後にはA4一枚分の丁寧な講評をいただき、最後の文章にはこう書かれていた。「のんきな隠居のような言葉で締めくくっていますが、まだまだですよ。(中略)毎日文章を書き続けて、文章力をさらに磨いていってください」 

 

「文章読本」の元祖・谷崎潤一郎は文章の上達法の一つとして、「感覚を研くこと」をあげて「できるだけ多くのものを、繰り返し読むこと」が第一、次に「実際に自分で作ってみること」が第二であるとし、「古来の名文といわれるものを、出来るだけ多く、繰り返し読むこと」を勧めている。しかしながら、私は良好な読書習慣が身につかず、「古来の名文」の蓄積が甚だ不十分。文章を書き続けるなど、とんでもないことと感じていたが、思わぬところからお誘いがかかったのである。

2024-02-11


2016年の春に専攻科を修了した仲間から、RSSC同窓会ホームページへの投稿サークル(Kissの会)立ち上げの提案があり、私は二つ返事で参加を決めた。内海先生の言葉がどこかに刷り込まれていたのだろう。その後、Kissの会は多くの7期生を巻き込みながら、活動を続けてまもなく8年。通算投稿回数は300回に近づいてきた。この間、私自身が年2回投稿するだけでなく、RSSCで同じ釜の飯を食った仲間の書き上げた文章を「読むこと」ができた。これは「古来の名文」とは異なる、同じ時代を生きる仲間のコトバとして心に響き、私の内なる図書館にインプットされていったのである。 

 また、年2回程度とはいえ「書くこと」に向き合うことは、少なからず私に変化をもたらした。その一つは読書スタイルが改善したことだ。以前は読みっぱなしがほとんどだったが、「書くこと」を意識することで、読後にメモを取ったり、読み返したり。そして手に取る本のジャンルが広がり、遅まきながらあるべき姿に近づいてきたようだ。昨年観たイタリア映画「丘の上の本屋さん」(左写真)では、小さな古書店の店主が移民の少年に静かに語っていた。「本は二度読むんだよ。一度目は理解するため、二度目は考えるため」と。


二つ目は「読むこと」が「書くこと」へつながったことだ。一年ほど前からKissの会の投稿だけでなく、気が向くと日記風エッセイをまとめるようになった。これは子や孫など限られた読者を想定しているが、とりあえずの読者は私一人。従って、あれこれ悩むこともなくサクサク書ける。そして、仕上がった時にはちょっとした達成感がついてくる。内海先生の「毎日書き続けて」というご指導には程遠いものの、とても有意義な“ひまつぶし術”を手に入れたのだ。

 

「感覚を研くこと」は文章上達に限ったことではなく、人生を豊かにする魔法のようなものかもしれない。谷崎も「総べて感覚と云うものは、何度も繰り返して感じるうちに鋭敏になる」とも言っている。友人から勧められた美術入門書には「言葉と感性は相性が悪いと思われがちだが、一緒に使うと感じ方も深まるし、言葉も研かれる」と記されていた。

 

「考えるな、感じろ」と言ったのはブルース・リーだが、あれこれ考えながら「感じること」も悪くない。「書くこと」がルーティンに加わったことで、私の感じる力も大いに刺激されているようだ。かつて、妻からアートに疎い男というレッテルを貼られたが、なにやら活路が見えてきたように思えるのである。(7期生 石巻)

 

 

【Kissの会 第169回投稿】       「私の休日倶楽部」

2023-08-21

 

6月下旬、北海道・東北を巡る7日間の“鉄道旅”に出かけることにした。是非とも行きたい観光スポットがあるわけではなく、のんびり気ままな一人旅。その日の天気と気分次第で、宿泊先の街歩きでも楽しめれば十分満足。昨年はなにかと大忙しで、ようやく一息ついたところだ。こんな旅も悪くない。そこで、今回は鉄道路線ごとに「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば…」ということとしたい。

【新青森⇔新函館北斗】

初日は司馬遼太郎が「北のまほろば」と呼んだ三内丸山遺跡(右写真)で、縄文の風を感じてから函館に向かった。この路線は「青函トンネル」を通るくらいで、さしたる期待はなかったが、新青森を出ると右手に青森湾とその向こうに夏泊半島の山々が視界に入り、トンネルを抜けて木古内を過ぎると、海に浮かぶ函館山がよく見えた。津軽半島と北海道南端の地図を思い浮かべてみると納得の風景だった。

【函館⇔札幌】 

函館から特急北斗に乗車して大沼公園を過ぎると、右側に北海道駒ケ岳(右写真)が姿を現し、やがて森駅付近で太平洋に出る。その後は噴火湾(内浦湾)の砂浜のない海岸線をひた走り、札幌まで3時間50分。長時間海が見えるこの路線に私はほぼ満足だったが、車内販売がないのが残念だった。どうやら東海道新幹線のワゴン販売も終了するらしい。鉄道旅も様変わりした。その昔、新幹線には食堂車があり、地方の駅には駅弁の立ち売りの姿もあった。信越線横川駅の「峠の釜めし」が懐かしい。

【札幌⇔旭川】

これまでは富良野、美瑛を経由しで旭川に入ったが、今回は特急ライラックで石狩平野を北上、所要時間は約90分。この石狩川流域は北海道の米どころ。今や生産量は新潟県に次ぐ全国第2位。泥炭地への“客土”や寒冷地向けの品種改良などの成果だけでなく、「寒暖差が大きいことが稲の生育には良い条件となり収量が多くなる」(農水省HP)とのことだ。冷害はもはや過去のものなのかもしれない。この日(6/27)、人気の旭山動物園(右写真)の温度計は32.2℃まで上昇していた。

【新青森⇒弘前⇒酒田】

札幌から乗り換え2回で約6時間。津軽の歴史と文化の中心地:弘前に到着。幸運にも弘前城を散策する頃には天候も回復し、津軽のシンボル:岩木山(下左写真)を仰ぎ見ることができた。翌日は太宰のふるさと“津軽”を探索するつもりだったが、あいにく終日雨模様。そこで、早めに北前船で栄えた湊町:酒田を目指し、古き良き時代を伝える街並みを歩いたが、日和山公園(下右写真)から日本海に沈む夕日を眺めることはできなかった。


「札幌からの帰り道、弘前ではなく、八戸に向かったらどんな展開だったかなぁ」

また、そう遠くない時期に出かけることになりそうだ。

                               (7期生 石巻)

 

 


【Kissの会 第158回投稿】  「孫育てデビュー」

2023-02-21

昼下がりの公園の横に幼稚園の送迎バスが停車する。ドアから降りてきた下の孫(まもなく5歳)は眠そうな目をして、いつもの元気はどこへやら。彼は3月17日生まれというハンデキャップと日々戦っているらしく、少々お疲れなのかもしれない。今日はジィジがお出迎えだ。こうして私の「見守りサービス」がスタートしたのである。 


家に戻って手を洗い、着替えを済ますとどうやらスイッチが入ったようだ。兄(小1)が戻るまではジィジとマンツーマン。次から次へとお気に入りのおもちゃを引っ張り出し、遊び方を説明してくれる。よく喋るようになったものだ。やがて兄が帰宅。弟がジィジを独占できたのはここまで。お菓子を食べようとする弟に「ジィジにも一つあげるんだよ」とのご指導。弟は素直に従い、主導権は兄に移ったのだ。以前はじゃれ合っていたかと思うとすぐケンカとなり、弟の大きな泣き声が部屋中に響いたものだが、少しだけお互いの間合いの取り方を覚えたようだ。

 

兄が最近手に入れた図鑑「古代文明のふしぎ」を持ってくると、弟もお好みの図鑑「魚」を抱えてやってきた。共通する特徴は「動く図鑑」とのことで、長時間のDVDつき。しかし、「魚」はともかく「古代文明」はいささか難解なのではと思ったが、これがなかなか優れモノなのである。ドローンを活用した空撮やCGなどが圧倒的な迫力でスクリーンに映し出され、そこにはこれまでの調査・研究の成果が織り込まれ、平易な言葉でわかりやすい解説がつく。それを見ながら図鑑の文言を確認していくと、私もすっかり引っ張り込まれていたのである。そして“鉄道オタク”一直線と思われた7歳の少年に「歴史はちょっとおもしろいかも?」と言わせたのである。まぁ、どちらにしても私の趣味嗜好の範囲内だし、これはしばらく楽しめそうだ。


さいたま市では「祖父母手帳」なるものが用意され「孫育て講座」も開かれているが、それらの情報では「子育てが一番しんどいのは1歳後半から3歳前半」と言われている。つまり、我が家はすでにその時期を通り過ぎ、次のステージでのポイントは「一人の人間として向き合い、行動の意味を理解してあげて」とのことだった。

 

そこで、自らの子育て経験を振り返ってみると、なんともお恥ずかしい限りである。わが息子が小学校に入学した頃の記憶をたどってみても、さっぱり思い出せない。一度だけ父親参観に行ったはずだが、あれは1年生の時だったのだろうか。当時は休日出勤も多く、当たり前のように女房殿のワンオペ育児。世の中はバブルの余韻が残り、まだWindows95の姿もなかった頃である。

 

ところが今では小学校で、一人1台のタブレット端末が配布される時代である。彼らが成長して社会に出るときに、どんな世界が広がっているのか皆目見当もつかない。地球環境問題に地政学的リスク、加えてデジタル社会への適応力の差が、新たな格差や弊害を生む予感がしないでもない。国会では「次元の異なる少子化対策」の論戦が繰り広げられている。子育ではほとんど機能しなかった私にも、再度チャレンジする機会が与えられたようだ。これは素直に喜ぶべきことなのだろう。

 

「ピンポーン」とチャイムが鳴ると、弟の表情が輝いた。ママが帰ってきたのだ。ジィジはそろそろ撤収の準備を始めよう。今日は間違いなく元気をもらった。君たちとは適切な距離感を保ち、過剰にスクリーンに頼ることなく、リアルな体験を共有しよう。祖父母離れも近いと聞く。いずれこちらが見守られる側に回るのかもしれないが、まだまだ踏ん張るつもりである。(7期生 石巻) 

 

 

【Kissの会 第147回投稿】  「月日は百代の過客にして……」

 2022-08-21

 

「東北の日本海側を走ってみたい!」

旅のきっかけはコロナ第6波が落ち着きを見せた頃、鉄人ドライバーとして名高い同級生の一言だった。梅雨明け直後を狙えば天候も安定、4回目のワクチンも接種済みとなる。他のメンバーも久しぶりのお出かけに前のめりだ。私は勤務地が6年間仙台だったため、東北は一通り網羅しているのだが、なんといっても1980年代のこと。妙に懐かしさがこみ上げてきた。

 

東北北部の梅雨明けが発表された7月末、天は我らに味方してこの上ないドライブ日和を用意してくれた。行先は秋田、山形。栃木:小山を出発して2泊3日、往復約1,300kmの“みちのくの旅”である。初日の宿泊地は竿燈まつりの準備が始まった秋田市内。日本海に沈む夕日を眺めるには、到着時刻が少々早すぎたのだが、まずは秋田港にあるポートタワーの展望台に昇ってみた。「オオーッ!」と思わず声が出た。

<秋田港>

<秋田港から見える風車群>


それは無料展望台(地上100m)の期待値を大きく上回るものだった。西に傾きかけた日差しは水平線を浮き立たせ、男鹿半島の先端を金色に輝かせていた。また、半島に向かってのびる海岸線には、真っ白な風車が立ち並んでいた。かつて私が見た秋田の風景には存在しない造形美だ。

 

2日目は男鹿半島を時計回りに一周した。南西端のゴジラ岩から北西端の入道崎、そして半島中央部の寒風山へ。助手席の私は左手に広がる穏やかな日本海の眺望を満喫していたが、鉄人はアップダウンとカーブが続く一般道で、自慢のハンドルさばきを披露。愛車のプリウスPHV(プラグインハイブリッド)は下り坂で献身的に充電を繰り返し、驚異的な低燃費走行を実現していた。この車はいざという時に非常用電源として機能する優れモノなのだ。

 

 

この日は海風も爽やかで、午後になっても気温は31℃。日本海東北道を南下し、鳥海山5合目の鉾立展望台を経由して酒田、鶴岡へ向かうことにした。標高1100mの展望台からは、『おくのほそ道』最北の地である象潟あたりを見下ろすことになる。

<男鹿ゴジラ岩>

<鳥海鉾立展望台>


 芭蕉は象潟に舟を浮かべ、鳥海山を仰ぎながら「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と書き残した。当時の象潟は外海と隔てられた潟湖に多くの小島が浮かび、松島と並ぶ景勝地だった。しかし、その後の大地震で海底が2m以上隆起して陸地となり、西行や芭蕉の見た象潟の姿を我々は見ることができない。芭蕉はそんな象潟の憂いを感じ取っていたのだろうか。

 

  暑き日を海に入れたり最上川

 

芭蕉がこの句を詠んだのはちょうど今頃。北前船の寄港地として栄えた酒田を流れる最上川は堂々たる大河だった。「俳句はアニミズムである」と中沢新一はいう。「この世界の中心は人間ではない。人間などは非人間の巨大な世界に包含されてあるちっぽけな存在なのだという世界観」(『俳句の海に潜る』中沢新一,小澤實/KADOKAWA)なのだそうだ。私の中にもそのような精神性が少しばかり受け継がれているように思えたのである。 

 

最終日は出羽三山に詣でることもなく、まだ山頂に雪を残す月山を横目で見ながら、山形道を走り抜けて蔵王の御釜<右写真>に立ち寄った。この日も風は弱く日差しが十分にあり、赤茶けた蔵王の山々とエメラルドグリーンの火口湖の美しさが際立っていた。ここで一句!と思ってみたものの手も足も出ず、私には俳句はもちろん詩歌の素養がないことに気づかされたが、負け惜しみを言えば、その存在感に圧倒され、とても十七文字で切り取れる景色ではなかったのだ。 

 

旅から戻ると首都圏では危険な暑さが続き、東北北部は記録的な大雨。コロナ第7波も衰えをみせていないが、その一方で、リアルな旅の魅力は捨てがたいことを再確認できた。次は列車の一人旅など企ててみたいものである。(7期 石巻)

 

 

【Kissの会  第136回】   「コウノトリと渡良瀬遊水地」

 2022-02-21

  「小さな自慢が、山ほどあります」

 

 これは我が街:栃木県小山市が昨年公募で選定したキャッチコピーとロゴマーク(右写真)なのだが、「自慢するほど語れるものはいくつあるか」と問われると、答えに窮するのが実情である。そこで、今回はコウノトリと渡良瀬遊水地に絞って“学び直し”をしてみることにした。

 

 野生のコウノトリについては、日本国内では1971年に絶滅したが、2005年に兵庫県豊岡市で試験放鳥が開始され、小山市に国の特別天然記念物が飛来するようになったのは2014年頃からとのことだ。そして2020年には渡良瀬遊水地に設置された人工巣塔で、野外コウノトリのヒナが誕生。東日本初の事例となったのである。

渡良瀬遊水地は小山市の南西端に位置し、市内を流れる思川と巴波(うずま)川が渡良瀬川に合流する低湿地である。面積は栃木・群馬・埼玉・茨城の4県にまたがる3,300haの我が国最大の遊水地で、2012年7月にはラムサール条約湿地に登録されている。では、なぜ関東平野のほぼ中央にこの遊水地が造られたのか、振り返っておくことにしよう。

明治の中頃、栃木県北西部の足尾銅山から有害物質(鉱毒)が渡良瀬川に流れ込み、流域の農漁業に異変が発生、明治20年代の大洪水により、大量の土砂が流出して被害が一気に拡大。のちに「公害の原点」と言われる「足尾鉱毒事件」である。その後、鉱毒被害の防止策の一つとして遊水地化計画が打ち出され、この地にあった谷中村を廃村にして、1910年(明治43年)渡良瀬川改修工事が始まり、1922年(大正11年)に遊水地が完成した。しかし、昭和に入っても洪水は繰り返し、様々な治水・利水対策上の機能が段階的に加えられ、現在に至っているのである。[右写真出所:古河市HP]


 立春が近づく2月の冬晴れの日に、人工巣塔のある渡良瀬遊水地(上写真):第2調整池を訪れた。桜並木が整備された堤の上からは広大なヨシ原が一望でき、南に富士山、西に浅間山と赤城山、そして北には日光連山となかなか見事な眺望が楽しめた。そしてコウノトリのお宅までの距離は約400m。私のカメラの貧弱な望遠機能では歯が立たないが、双眼鏡なら観察可能だ。白と黒がはっきりしている翼を広げると200~220cmになるという。立った状態での高さは100~110cm。体重は4~5kg。4~5歳の子供とほぼ同じで、まさに湿地生態系食物連鎖の頂点に君臨するかなり大きな肉食の鳥なのだ。


地元では3年連続のヒナ誕生に期待が膨らんでいる(上左写真)。次世代が育つプロセスはとても魅力的だ。ここが彼らの子育てに最適な環境であることを祈りたい。コウノトリが個体数を増やすためには、エサが豊富であることが必須条件だそうだ。3月には恒例の“ヨシ焼き”(上右写真)が行われる。これはヨシに寄生する害虫の駆除や、ヨシ原内の樹木を焼くことで樹林化を抑制するとともに、絶滅危惧種を多く含む湿地植物の良好な生育を促進するなど、湿地環境の保全に重要な役割を果たしている。[上左右写真出所:小山市HP]

 

足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山したが、鉱毒を処理する浄水場は今なお稼働している。また、大量伐採と亜硫酸ガスによる煙害で、森が失われた足尾の山に緑を取り戻す運動も継続中だ。渡良瀬遊水地にコウノトリが定住できるということは、長きにわたる様々な努力の結果であろう。足尾鉱毒問題を国会で取り上げ、明治天皇への直訴に及んだ地元選出の代議士:田中正造は晩年に次の言葉を残している。

 

 「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」

 

1912年(明治45年)に彼の日記に書かれたものだが、昨今話題のSDGsと似た響きを感じてしまう。この100年間、私たちは何をしてきたのか、またこれからは何をすべきなのか。傷んだ大地を修復するには、途方もない時間と労力が必要なことは間違いないのである。(7期 石巻)         

 

      

【Kissの会 第125回投稿】  「気分転換、お勧めします」

 2021-08-21

 

7月下旬からTV番組がオリンピック一色となり、各局とも足並みを揃えて競技中継と日本選手のメダルラッシュを報じていたが、一方でコロナ感染者が急増するものの新たな打ち手は特になし。少しばかり“疲れ”を感じた私は関東平野の喧騒から逃れることにした。行先は県境を越えない範囲で奥日光と決めた。当然、日帰り単独行動である。まぁ、ウォーキングのルートを地元の定番コースから中禅寺湖畔に変更した程度のことなのだが、避暑地へのお出かけは妙にワクワクするものである。

翌日午前中、私は湖畔の英国大使館別荘記念公園でアイスティーを飲みながらくつろいでいた。湖面の標高は1,269m、日本一高いところにある湖であり、8月の最高気温の平均が22.6℃。猛暑日が頻発する北関東では“別世界”といっても過言ではない。ここは2016年に開館した比較的新しい観光スポットなのだが、平日ということもあり人影もまばらで、真夏の避暑地の賑わいは感じられなかった。


維新に色濃くかかわった英国外交官アーネスト・サトウがこの地に山荘を建てたのが明治29年(1896年)。彼の離日後は大使館別荘として2008年まで使われていたそうだ。別荘の広縁から眺める風景はまさに「一幅の絵画」である。日本庭園で有名な足立美術館に窓枠を額縁に見立てた「生の額絵」と呼ばれる人気スポットがあるが、ここでは建物とその影が山々の姿とそれらを映す青く澄んだ湖をバランスよく切り取っているように見えた。

 

やがて季節は移り、正面の日光連山最高峰の奥白根あたりが白い雪に覆われると、紅葉が一気に山を駆け下りる。紅、橙、黄色のクラデーションと針葉樹の緑に囲まれた中禅寺湖が目に浮かぶ。冬景色もそれなりに趣がある。気温は低いが雪の量はそれほどでもなく、湖は厳冬期でもめったに凍らない。1984年2月以来全面結氷は確認されていないそうだ。水深が163mあり、凍りにくい湖ではあるのだが、温暖化の影響も否定できないだろう。そんなことを考えながら、時間の経過を忘れてしまうほど心地よく癒される空間だった。

 

 明治中頃から昭和初期にかけて多くの外国人が湖畔に別荘を建て、国際避暑地と呼ばれていたそうだが、100mほど西側には旧イタリア大使館別荘も公開されている。その建物の正面には桟橋があり、先端まで歩いていくと右側に奥日光のシンボル・男体山が姿を現した。


この風景は私に遠い記憶を思い起こさせた。学生時代の夏、キャンプ場の桟橋から月明かりの中禅寺湖へ仲間たちとボートを漕ぎ出した。昼とは異なる湖上の風と恐ろしく冷たい水しぶきにほろ酔い気分は吹き飛び、あたふたと桟橋に引き返した。今でもその時のメンバーの顔を鮮明に覚えている。ボートの上ではしゃいでいた奴といち早く危険を察知した男は若くしてこの世を去った。生きていたなら……。

 「まだまだだぜ。しっかり前向いて生きていけよ!」

そんな声が聞こえてきた。懐かしい顔に気合を入れられた格好だが悪い気はしない。おっしゃる通りだ。

 

避暑地から戻って一週間ほどするとコロナ禍は災害級となり、日本列島には季節外れの前線が居座り、各地で大雨特別警報が発令される事態となった。この夏休みの息子家族との接点はZoomでのご対面となったが、彼らの先行き不透明感が払拭されるのは容易なことではなさそうだ。ある環境学者に言わせれば「私たちは決定的な10年に入り、それは人類の未来を左右する10年になる」とのこと。来春は上の孫が小学生、2030年には彼も15歳になる。私にもできることはまだあるはず、そう思えたのだ。どうやら湖畔で過ごしたひと時には若干くたびれたシニアをリフレッシュさせる効能があったようである。                    (7期生 石巻)

 

 

【Kissの会 第114回投稿】   「足利の葡萄畑に行ってきました」

 2021-03-11

 

9日間続いた山火事が落ち着きを見せた3月初旬、北西の強い風が静まり、穏やかな春の日差しが期待できる一日を待って、栃木県西部の足利市に出かけることにした。お目当てはココ・ファーム・ワイナリー。山火事現場から少しだけ北の山あいにある葡萄畑と醸造場である。

 

10:30のワイナリー見学コースにエントリーしたのは私一人。女性スタッフから45分間のレクチャーを受けたが、なんといってもマンツーマン。その内容は至れり尽くせり、喜ばしい限りである。そして私は5種類のテイスティンググラス(@500円)を載せたトレイを持って、葡萄畑を見渡せるテラス席に陣取った。目の前には青空を遮り、壁のように迫る平均38度の斜面に葡萄の棚が広がっていた。 


 「この急斜面に葡萄の木を植えるアイデアはどこから出てきたのですか」

  

 「当初は開墾がすべてで具体的に何に使うかは決めていなかったようです。開墾が終わり野菜でも育てるか

  となったのですが、うちの園生には雑草と野菜の区別ができないこともあり、木に実のなる作物、葡萄が

  いいと考えたそうです。やせた土地ですが、日当たりも水捌けもいいので、葡萄にとっては望ましい環境

  だったのです」

 

1950年代、足利市の特殊学級(現在の支援学級)の中学生たちとその担任教師によって開墾が始められ、葡萄畑が開かれたのが1958年。その葡萄畑のふもとに指定障害者支援施設「こころみ学園」が設立されたのが1969年。そしてそこに所属する“園生”たちがこのワイナリーの働き手となっているのである。

 

  「ワインができたらカッコいいなぁ」

 

ワインづくりを開始したのは1984年。生もののブドウが売れ残った時につぶやいた園生の一言がきっかけだった。

「同情で買ってもらうワインは作るな」というのが創業者のご意向だとか。その結果として、九州・沖縄サミットや北海道・洞爺湖サミットなどで採用され、また数多くの国際線ファーストクラスでの取り扱い実績を有する銘柄を持っている。

 

  「毎日同じ木の下に立って、カラスなどの鳥を追い払っていた園生がいたのですが、その葡萄の木から

   立派な果実が収穫できたのです。丁寧な仕事は葡萄にとっても好ましいようです」

 

この畑では一年中仕事があるそうだ。当日は園生たちが葡萄の木の剪定作業を行っていたが、この急斜面に大型機械は入らず、すべて手作業。除草剤も一切使っていない。草刈りだけでも膨大な作業量になる。そんなことを考えながら味わうワインはひときわ力強く、また優しく感じられたのである。

 

昼過ぎにはテラス席にも客が入り始めたので、気に入った赤白各1本のワインを購入して足利市内へ向かった。そして定番の足利学校(写真:下左)や周辺の史跡を巡りながら、一方でワイナリーでのやり取りを思い返していた。RSSC在籍時に受講した講座の影響で、私は特別支援学校(知的障害者)のボランティアを1年半ほど経験した。ある時、彼らの卒業後の進路について尋ねたことがあるが、現実はなかなか厳しいものがあった。この葡萄畑と醸造場は本物のワインづくりとともに、園生たちの生きがいや働きがいを創り出し、かつ長期間継続しているのは称賛に値すると思う。


ふと携帯の歩数計をチェックするとまだ7,000歩強、目標の10,000歩越えまではもうひと頑張り。そこで森高千里のご当地ソング「渡良瀬橋」(☜click:1993年リリース)まで足を延ばすことにした。渡良瀬川にかかる橋の北側に近づくと、歩道に沿って渡良瀬橋の歌碑(写真:上右)が無造作に設置されていて、ボタンを押すと曲が流れだした。今日はワインのテイスティングに始まり、クロージングは森高千里。昨年は都道府県魅力度ランキングで最下位に沈んだ栃木県だが、まんざら捨てたものでもないのである。 (7期:石巻)

 

【Kissの会 第103回投稿】  「どうせやるなら、楽しくやろうぜ!」

2020-09-11 

 7月の記録的な大雨と日照不足、そして梅雨明け以降9月になっても続く猛暑もようやく終止符が打たれそうだ。天候に恵まれない中、この夏の我が家の菜園ではキュウリと枝豆がまずまずの収穫。少なくとも私のビールの友として、また孫たちの収穫体験の材料として十分に役割を果たしたといっていい。ナスは不調だったが、8月の猛暑を避けて枝を落とし、根を切って追肥を実施。1カ月ほど株を休ませて秋ナスの収穫に備えている。初めての更新剪定作業だったが、なるほど!テキスト通りに株が見事に若返り、どうやら10月まで秋ナスが楽しめそうだ。 

 

一方、私の方も休養は十分。朝早く起き(現在は5時起床)、犬の散歩、テレビ体操(10分)+筋トレ(スクワット、腹筋など)でひと汗かいた後、シャワーを浴びて朝食をとるという充実した朝を過ごしている。また、三密を避けるために、買い物などの外出も極力午前中とし、移動手段には徒歩を選択、おかげさまで午前中に7000歩前後のウォーキングをこなし、猛暑の午後はエアコンの効いた部屋で読書などをして過ごしている。withコロナでの新しい日常の基本形については、生活のリズムとして定着してきている。

 

諸般の事情により、実家の一戸建て(築35年)にメンテナンス要員として住むことになり、約一年が経過したが、田舎の一戸建てはやるべき作業が豊富で、おこもり生活にはもってこいなのである。雑草対策に始まり、ブロック塀などの外壁補修、水回りのチェックなど様々な案件が日々発生する。放っておいてもさほど困ることはないのだが、多くの場合は最寄りのホームセンターで材料を調達し、中学生の技術家庭のスキルがあれば、ほとんど解決するのである。

 

このプロセスがなぜかとてもおもしろい。様々な機材や工具が準備されて、仕上がりをイメージして自らの判断で決めていく。うまく出来上がれば、俳句の一つでもひねりたくなるような気分なのである。先日受講したセミナー(ユリイカの会主催、講師:大熊玄 氏)のネタを借りれば、鈴木大拙氏の言うところの「詩の世界(創造的想像力)」を感じているのかもしれない。 

今後の課題は行動範囲をどのように拡大するかということになるのだが、そこで、中断していた案件「母方のルーツ」の探索を進めることにした。これは以前から戸籍などを収集、母親、叔母からもヒアリングを実施して準備しており、いざ、実地調査開始というタイミングでコロナ禍が始まってしまったのである。母親、叔母とも高齢のため、あまり先送りするのも好ましくない。訪問予定先の多くが栃木県内、動き出すなら今がチャンスだ。まずは床の間の横に飾ってある書道の作者(僧侶)の寺を訪ねるところから始める予定だ。そしてついでに栃木の秋を満喫しようとたくらんでいるのである。

※「恭惟鞠養(キョウイキクヨウ)」:謹んでわが身を守り育ててくれた(父母の)恩を思う。

(7期生:石巻)

 

【Kissの会 第91回投稿】             「正しく恐れて……」

 2020-03-21

  

このところ携帯の「歩数計」の実績に精彩がない。年初から7000歩/日を最低目標とし、おおむね順調に推移していたのだが、2月下旬に風邪の症状が出て、時節柄外出を控えたことからペースダウン。体調はほどなく回復したのだが、3月からの「一斉休校」の影響が大きいのかもしれない。

昨年末から母校(小学校)でのボランティア活動を始めた。具体的には愛犬を「安全見守り犬」として登録、指定のタグ(写真参照)をぶら下げて、通学路を散歩しながら児童の交通安全、防犯活動の一翼を担うという、甚だお気楽な活動なのである。いかほど狙い通りの抑止効果を発揮しているかは不明なのだが、少なくとも「歩数計」の目標達成に大きく貢献しているのは間違いない。

      「こんにちは!」

      「あっ、見守り犬だぁ!」

と元気あふれる子供たちから声がかかると、愛犬は精一杯愛嬌を振りまき、飼い主の背筋もおのずと伸びる。地域社会と接する貴重なルーティンワークとして定着したと思っていたが、見守る対象者が姿を消すとその位置づけも「不要不急」となってしまったようである。 

そんな中、ずいぶん前に予約していた本(ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』)の貸し出しの順番が回ってきた。前作の『サピエンス全史』に続き、独創的な視点で人類の未来を予測したもので、その内容を要約すると次のとおり。

 

「飢饉と疫病と戦争に悩まされてきた人類がその課題をほぼ克服し、AIやバイオテクノロジーの進歩により、自らを神のような力を持つ“ホモ・デウス”にアップグレードする道をたどる。そして人類は超エリート人間の小集団と、経済的・政治的な力を全く持たない巨大な底辺層の、役に立たない人間(無用者階級)とに分裂することになる」と警鐘を鳴らす。

 

この本を読んでいる間に、中国:武漢で発生したCOVID-19がパンデミックとなり、世界各地で非常事態・緊急事態宣言がなされている。人類は疫病を克服したかに見えたが、未知のウイルスは一筋縄ではいかないようだ。ただし、人類はかつてのように神に祈ることしかできないわけではなく、あらゆるテクノロジーを駆使して乗り越えていくだろう。特に印象的だったのは、AIの活用が急速に進む隣国で、個人の行動を(位置情報など)を当局が徹底的に管理して感染防止をはかり、人々がそれを当然のこととして受け止めていることである。まさに「データ至上主義」という未来社会を垣間見る思いがした。

 

AIが人間を飲み込む社会にならないためにどうすればいいか、著者:ハラリ氏はこう語る。

  「テクノロジーを追い求めるだけでなく、自分自身が何者であるか理解することに時間を使うべきだ」

  「人間が取り残されないためには、一生を通して学び続け、繰り返し自分を作り変えるしかない」

どうやら画期的な解決策はないようである。振り返ってみれば、我々がRSSCで実践した「学び直し」「再チャレンジ」は自分自身を知るうえで貴重な時間だったのかもしれない。

さて、私も気を取り直して生活のリズムを再構築しよう。東京のサクラの開花が統計開始以来最速。この週末は天候にも恵まれて各地で見頃となるはずだ。新型コロナの予防対策をしっかり頭に入れて、愛犬との「見守り活動」を通学路から桜並木のある通りに変更しよう。私の地元は開花時期の異なる二種類のサクラ(ソメイヨシノ、思川桜:小山市原産)を楽しむことができ、お花見シーズンがかなり長い。ピンクのグラデーションの先に広がる青空を眺め、春の息吹を感じながら体を動かす習慣をキープしよう。なんといってもシニアにとって運動不足は大敵なのである。(7期生 石巻)

 

 

【Kissの会 第81回投稿】  「ふるさとシリーズ PartⅡ」

 2019-09-21

 

この夏に大学卒業後12回目の引越しを行い、栃木県小山市にある私の実家に転居した。母親(93才)がついに在宅・独居を断念してサービス付き高齢者住宅へ移り、空き家状態を避けるために私が“ふるさと”に帰ることになったのである。

9/11付のゲスト投稿「ふるさとは遠きにありて思うもの」(記:馬淵さん)では、かつてグラバー園から眺めた港の風景や稲佐山からの夜景が心に浮かび、 “ふるさと長崎”の素晴らしさが馬淵さんの息遣いとともに生き生きと伝わってきた。

 

一方、私の “ふるさと小山”は長らく暮らした浦和から関東平野を少々北に移動しただけで、新幹線の停車駅という利便性から、人口は微増を続けているごく平凡な北関東の街なのだ。市内を流れる思川(写真上左)にかかる橋から自宅方向に目を向けると、小高い丘に緑が目立つ。平安末期から戦国時代までこの地で勢力を誇った小山氏の居城跡などだが、整備が不十分で知名度は高くない。つまりSNS映えするスポットには恵まれていないのである。

 

しかしながら、私にとっても“ふるさと”はそれなりに居心地がいい。慣れない一戸建てで草むしりやその他の雑事も多いのだが、なぜか落ち着くのである。近隣の風景は大きく様変わりした。子供の頃には住宅が密集していた一画が広い駐車場を備えたコンビニとなり、目の前の小学校では私が通っていた頃の校舎は跡形もなく消え去った。

その中で変わらぬものが一つある。自宅の庭と4m道路を挟んで見える小学校の校庭(写真下右:自宅2階より)にはブランコやジャングルジムなどの遊具が並び、休み時間にはドッジボールに興じる子供たちの歓声が家の中まで聞こえてくる。この校庭は文字通り“私の庭”だったのだ。 

「ドッジボールは腹で取る」

これに気づいたのは、たしか4年生の体育の時間だったかな。

 

授業の終盤、コート内に私が一人残り、相手チームの複数名の中にテツオがいた。彼はクラスで一番“スゴイ”球を投げる。当時の私のプレースタイルは“ひたすら逃げる”のみ。勝利を確信したテツオはコートの一番奥まで下がり、助走をつけて投げ込んできた。ボールは低く私の下腹部めがけて飛んできた。全く動けなかった。衝撃を和らげようとした私の動作がみぞおちあたりでボールを抱え込み、ボールが地面に落ちることはなかった。

 

残念ながら奇跡は2度起こることはなく、ほどなくゲームは終了したが、休み時間に委員長のマユミちゃんが私の机に駆け寄ってきた。

「修ちゃん、スゴかったね!」

この一言が私の行動を変えたのかもしれない。私は朝早く登校するようになった。誰もいない校庭にジョウロの水でドッジボールのコートを描き、友人たちの登校を待ち構えた。誰かに命じられてやったことではない。学校が近く、集団登校の義務がない私には造作もないことだった。毎日が楽しかった。

やがてボールに向かっていく気持ちとともに、ひ弱だった体にも少しずつ力強さが加わってきたようだ。6年生になる頃にはテツオと並ぶドッジボールのクラスの主役に躍り出ていた。その後、私の学校生活は体育会系一筋となっていったのである。

 

ドッジボール以外にもこの場所は様々な事柄を私に与えてくれた。さらには60代半ばで舞い戻った男に「私が何者なのか」を気づかせてくれた。漠然と感じている居心地の良さはこれと無縁ではないはずだ。朝ドラの主人公“なつ”が十勝でパワーをもらい、新たな一歩を踏み出す気分に近いのかもしれない。

そういえば、朝ドラに出てくる俳優はいい男ばかりなのだ。草刈正雄のような存在感のある“じぃちゃん”になるには、さてどうすればよいか。私の孫は二人とも男なのが残念ではあるが……。(7期生 石巻)

 

 

【KIssの会  第70回投稿】 「あなたも書いてみませんか!」

2019-02-21

 

2月4日(月)Kissの会:第7回編集会議が都内某所で行われ、その後の会食は「近畿大学水産研究所銀座店」。言わずと知れた近大マグロをはじめ、マダイ、カンパチ、シマアジなど近大卒のお魚クンたちが勢ぞろい。参加者一同大満足で、研究所ゆかりの紀州の地酒を楽しみながら、多くのことを語り合いとても有意義なひと時を過ごすことができました。

 

RSSC Webサイトへの投稿サークルとして活動しているKissの会の編集会議は年2回、決して多くはありません。半年ぶりに顔を合わせるメンバーもいますので、「ご無沙汰です!」というあいさつも口をついて出てきますが、実はそれほど“久しぶり”という感じがしないのです。それはなぜか……。

 

やはり、原稿用紙3枚前後の文章の力は絶大なのです。私はメンバーから提出された原稿をRSSC Webに掲載しています。作業の手順として二度三度と投稿文に目を通すことになるのですが、読むたびに新たな気づきがあるのです。文章には文言が伝えること以外にも個々人のリズムや味わい深い響きがあり、執筆者の個性を感じるのです。結果として、その人としっかり向き合って話し込んだときのような効果を生むのかもしれません。また、メンバーだけでなく、7期生会有志にゲスト投稿者として参加を呼び掛けていますので、時には懐かしい友人から手紙をもらった気分で読ませてもらっています。こうしたところにいつもと違う“心地よさ”を感じているのは私だけではないと思います。 

昨今、人と人との“つながり”が希薄となってきたことへの警鐘が鳴らされています。NHKの造語では“無縁社会”、社会学用語としては“社会的紐帯(チュウタイ)の喪失”などと言われています。また“絆”という言葉がもてはやされるように、多くの人々が新たな“つながり”を模索しているのも事実のようです。

 

私自身、電話で話す機会は激減しました。LINEのスタンプとか、facebookの“いいね!”とか便利なSNSが豊富にあり、うまく使えばそれなりにコミュニケーションは維持され、絆らしきものが広がっていくようです。でも、何か物足りなさを感じることもあるのです。それは会話では相手の表情や息遣いがダイレクトに伝わる迫力があり、文章には読者を意識しながら、自分の考えを整理して、言葉を選んで伝えていく楽しみがあるからです。

 

3年前、5人のメンバーでスタートしたKissの会の活動は現在メンバー11名、それにゲスト投稿者を加えると総勢37名まで広がりました。投稿の内容をざっくり言えば「最近あったこと、考えたこと、思い出したこと」などが丁寧にケレン味なく描かれています。同じ釜の飯を食った仲間が一定の時間を費やして仕上げた作品です。月数回の“読み物”としてこれ以上のものはありませんが、一方で書く側の魅力も捨てがたいものがあるのです。

 

そこで是非とも“読者”としてではなく、“書き手”となってご参加ください。Kissの会では自らのWebサイトを運営していますので、それぞれの作品がそのままWeb上に記録として残る仕組みになっています。そうする“紐”か“帯”かは別として、なんらかの“つながり”を実感できると思います。複数回の投稿も歓迎します。7期生の皆さん!!今後ともKissの会をよろしくお願いいたします。(7期生:石巻)

※写真撮影:梅原さん 

 

【KIssの会 第59回投稿】 「旧盆に哲学する」

2018-08-21

8月13日、迎え盆の長男の役割として、実家のある栃木県小山市の菩提寺に車を走らせた。来年は父の七回忌、祖母の三十三回忌など法事の当たり年なのだが、どうするかはまだ思案中である。

 

街の西側を流れる思川(写真)の橋を渡れば目的地はすぐそこだ。幼い頃はこの川で泳ぎ、送り盆にはこの河原から灯篭を流した。やがて水の事故や水質悪化の影響から泳ぐことも灯篭流しもできなくなったが、釣りやボート遊びなど、ここが私のワンダーランドであることに変わりはなかった。ワンダーランドの教師である父親は特にボートを漕ぐのが巧みだった。母親に尋ねると、

「海軍さんだからね」

 

親父は特攻隊員だった。8月15日(終戦日)に特別な思いを持っていた男だった。多くを語らずこの世を去ったが、残した俳句に終戦の文字が目立つ。七つボタンの正装に身を包み、かしこまった表情の写真を私がタンスの奥から引っ張り出すと、親父は少しはにかみながらこう言った。

「それかぁ~、戦時中の葬式用の写真だぁ」

「まぁ、オレが死んだら、青森:三沢沖の太平洋に散骨してくれ……」

散骨の話は案外本気だったのかもしれない。墓前に立つと改めてそう思う。おそらく今頃は太平洋上の風となって、眼下の雲を眺めていることだろう

「まぁ、お盆なんで、ちょいと戻ってくるかい。ひとっ飛びさ!」 

6月から「良く生きるための哲学講座『名句の哲学』」(講師:立教大学名誉教授 高橋輝暁先生。主催:ユリイカの会)を受講している。第2回講義のテーマは古代ギリシャの哲学者:アナクシメネス(写真)。彼は『万物の源は気である』と主張した。 “気”とは空気、息、呼吸、風、魂、精神などを意味する。そして、この意味はヘルダーリンからシェリングを経てヘーゲルに至るドイツ観念論哲学の中心概念としての「精神」へと受け継がれていったとのことである。

 

以上は講座の受け売りなのであるが、そういえば、宮沢賢治の童話の“風”も魂をのせて“どう”と吹き、「千の風になって」の詩も広く知られるところとなった。風に魂を感じるのは古今東西共通の概念なのかもしれない。また、「良く生きる」とは少なくとも「生きることについて考えながら生きること」であると多くの哲学者や賢人たちが述べているようだ。では、身近な存在だった親父は「良く生きた」といえるだろうか。

 

「放心の 隅に安堵や 終戦日」

 

親父が60代後半に詠んだ句である。終戦後に結婚、一男一女を儲けて孫三人にも恵まれた。頑固で几帳面な職人肌の男だった。88歳で天寿を全うするまで「拾った命、さてどう生きるか」と考え続けたのは間違いない。60代後半から一日も欠かさず日記をつけ、その時々の出来事や思いを綴り、年末には1年間の総括を書き残していた。まさに「良く生きた」証しではないかと思えるのである。

 

西田幾多郎の言葉に「折にふれ物に感じて思い出すのがせめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである」とある。おかげさまで、今年のお盆は例年になく丁寧な供養ができ、ご先祖様に胸を張ってもよさそうだ。「良く生きるとは」という問いへの私なりの答えについては、慌てずにたっぷり時間をかけて考えることにしよう。『名句の哲学』講座も残り3回。どんな気づきがあるか楽しみだ。(7期生 石巻) 

 

 

【Kissの会 第40回 投稿】「小春日和」

                                                                                             2017-11-21

 11月7日に二十四節気の「立冬」を迎え、暦の上ではすでに冬。天気図には西高東低の気圧配置が登場してきたが、まだ日中はそれほど寒さを感じない。野菜作りを始めてから四季の移り変わりを肌で感じるようになってきた。10月下旬は低温、長雨、それに二つの台風と作物にとっては厳しい環境だったが、それらを乗り越えたご褒美のように今月前半は穏やかな秋晴れの日が続いていた。

 

先日、RSSCメンバーの案内で赤城自然園(群馬県渋川市)を訪れた。標高600~700mの晩秋の森の中を歩くのはおそらく初体験だろう。久しぶりに「空気がうまい」と感じたことに驚きさえ覚えた。前日は平野部でも風が強く、群馬名物「赤城おろし」を心配していたが、この日はどうやら「からっ風」も一休み。澄み切った青空の下、まだ緑のイロハモミジが残る小春日和の林の中を、仲間たちと気持ちよく歩き<、赤城の紅葉をたっぷりと楽しむことができた。

 

 「小春」とは旧暦10月の別称で、新暦の11月~12月初めごろにあたるとのことである。そして立冬を過ぎた今頃の、春のように暖かい日を小春日和といい、春先の二月や三月に暖かい日があっても「今日は小春日和だ」というのは間違いなのだが、文化庁が発表した平成26年度「国語に関する世論調査」では、小春日和という言葉を本来の意味とされる「初冬の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が51.7%、本来の意味ではない「春先の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が41.7%という結果が出ているそうである。この言葉を「春先に使うのは誤り」としなくなる日も案外近いのかもしれない。

 

季節はまもなく「立冬」から「小雪」へと移っていく。「小雪」とは平地でも雪が舞い始める頃という意味である。例年なら関東以西での初雪はまだ先のことなのだが、早くも1月並みの寒さが襲ってきた。9月初旬に植えた秋ジャガイモの収穫まであと半月ほど。霜が降りると一気に枯れてイモの成長が止まるというのだが、さてどうなりますやら……。(7期生:石巻)

 

【Kissの会 第30回投稿】「オホーツクの思い出」

2017-6-19

一昨年の夏のことである。私は友人たちに誘われるままに北海道を車で巡る旅に出た。首都圏から宗谷岬までの往復:3500㎞。いささか無謀とも思えたが、妻の三回忌を済ませ一区切りついた時期でもあり、二つ返事で誘いに乗ったのである。 

灼熱の首都圏を脱出して仙台を過ぎ、北上盆地に入る頃には暑さも和らぎ、花巻あたりからは目の前に南部富士(岩手山)が威風堂々とその姿を現した。宮沢賢治もあの山を登ったのだ。彼の童話の舞台となった森や北上川の流れを思い浮かべながら、十和田八幡平の山々を突き抜けるとそこは津軽平野。「富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて…」と太宰治が描いた津軽富士(岩木山)は夕日を浴びてそのなだらかな裾野を輝かせていた。この二つの名峰はこれといった旅の目的を持たなかった私に「海に浮かぶ利尻富士(利尻山)を眺めてみたい」という思いを抱かせてくれた。

 

出発から4日目の昼頃には根室海峡をはさんで国後島と向き合う羅臼の街に入った。乳白色の海霧が低く立ち込めた港周辺は真夏とは思えないような肌寒さだったが、これが道東の夏の風物詩なのだろう。羅臼岳をかすめて知床峠を越え、知床五湖に近づくと肌寒さも消え、心なしか森の緑も鮮やかになってきた。同じ知床とはいえオホーツクの気候は太平洋側とは異なるのだ。 

 

知床五湖を訪れるのは二度目のことだ。初めてこの地を訪れたのは40年前、手狭な駐車場と小さな木造の管理人小屋があるだけだった。20歳の若者たちはそこにテントを張る準備を始めたのだが、クマが出ると聞き、一目散にウトロの海岸へと退散したのである。現在ではクマとの遭遇を避けるために「高架木道」が整備され、多くの観光客で賑わっていた。何といっても世界遺産なのである。

 

翌日は網走から宗谷岬まで走行距離:約300km。冬は流氷でおおわれるオホーツク沿岸の国道沿いには網走湖、サロマ湖など多くの湖や湿地があり、様々な開発の手が加わった本州の海岸線とは異なる景観が続いていた。日が西に傾き浜頓別の街が近づいてきた頃、首都圏からハンドルを握り続けてきた男がつぶやいた。

「少し寄り道をしよう。走ってみたい道がある」

「何処よ?」

「猿払村道:エサヌカ線、8km続く直線道路!」

さすがに穴場というだけあってこれといった標識もなく、所在を突き止めるまで少々手間取ったが、目の前に現れたエサヌカ線の風景は衝撃的だった。建物はおろか樹木さえ見当たらない広大な牧草地を、ただ一本のまっすぐな道が地平線に吸い込まれていく。幾重にも重なった雲が夕暮れ時の光を遮り、走る車もなく、人も家畜も鳥の姿さえ見えない。ただ、オホーツクからの風だけが目の前を通り過ぎていく。まるで私の心の中を写し取られたように思えてならなかった。

 

一区切りついたとはいうものの、一方で目指すべき方向が定まらない時期だった。何もない景色は私の脳裏に様々な事柄を思い起こさせ、そして風のように消えていった。

「そろそろ行こうぜ。日が暮れる」

セルが回る音がいつもより大きく聞こえてきた。

「前に進むしかあるまい」

その時、私はそう思えたのである。

 

翌朝は宗谷岬から稚内を経由して日本海沿いを南下していったが、利尻富士は灰色の雨雲の中に隠れたままだった。ドライバーは帰路に入ってもハンドルを渡すつもりはないようだ。全く特異な才能を持ち合わせたヤツがいたものだ。利尻富士を眺められず、助手席で悔しがる私にその男はこう言い放った。

「また来ればいいじゃねぇか~」

持つべきものは友ということか。その時もまた、運転をお願いしたいものである。(7期生 石巻)

【Kissの会 第22回投稿】 「冬の畑の楽しみ方」 

昨年の秋も深まった頃、“野菜作りにチャレンジするのはおもしろいかも?”と思い立ち、道具・肥料・栽培アドバイス付きで有機無農薬の野菜作りができる体験農園を見学に出かけてみた。
「私なんかにできますかね」
「男の人は結構ハマるようですよ。肥料を工夫してみたり、いろいろな野菜の作付けを考えたり、勉強熱心な方が多いですね」
「これまで土いじりには全く興味はなくて、好きか嫌いかと問われれば“嫌い”と答えるような人間だったけど……」
「ここで過ごす時間は案外いいもんですよ。外で日にあたると気持ちがいい。ただし、夏は朝早く起きて9時を過ぎたら作業はやめること」
アドバイザーのTさんとのやり取りは私の不安を少しずつ和らげ、一歩踏み出してみようという気持ちに傾いてきた。

「ツグミが来たよ~! 今年初めて見るね」
Tさんは一緒に来ていた小学2年生の息子さんに声をかけた。ほんの10mほど先の杭の上で、黒いうろこ模様を見せびらかすように、胸を張って止まっているツグミの姿はちょっと偉そうにも見えた。冬を越すためにはるばるシベリアからやってきたのだ。エサが豊富であることを祈りたい。 「ここはバードウオッチングも楽しめますョ。普段は双眼鏡を持ってくるんですけどね」

2月下旬、土づくり、畝立ての日がやってきた。快晴だが北風が強く気温は低い、でも日差しには春が近づいてきているぬくもりが感じられた。畑一面には赤紫色の花を咲かせたホトケノザが広がっていて、一瞬クワを入れるのをためらうほどだった。
「この花がよく咲くのは野菜作りに適した土だという証拠なんです」
「ホトケノザって、春の七草の?」
「春の七草のホトケノザとは全く別物です」
たかだか3m×4mの区画である。耕すのにさしたる時間はかからなかった。
「ジャガイモから始めると聞いたけど、ほかに何を作ればいいかな」
「それを考えるのが楽しみの一つです。自分の食べたいものを作るのが一番ですよ」

作業を終えた畑にツグミがやってきた。どうやら彼のエサを掘り起こしたようだ。
「いつ帰るんだい」
「来月かな、戻ったら子育てで忙しいのさ」
「ここの居心地はどうだい」
「わりと気に入ってるよ。秋にはまた来るかもね。じゃあな!」

さて、秋にツグミが来るまでにどんな野菜が収穫できるだろうか。作付け計画の基本方針は「少量多品種」でいこう。まずは作りたい(食べたい)野菜のリストアップから始めることにし、ジャガイモの種芋を入手しよう。今年の春は忙しくなりそうだ。
(7期生:石巻)

【Kissの会 第15回投稿】「列車の窓から」

%e9%b7%b9%e5%8f%96%ef%bd%9e%e6%96%b0%e9%95%b7%e7%94%b0前回登場した兵庫県立長田高校は1995年1月17日早朝に発生した阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸市長田区にある学校である。同年 2月4日、私は空路岡山に入り、姫路を経由してまだ動き始めたばかりのJR山陽本線で神戸に向かった。明石を過ぎると民家の屋根にブルーシートが目立ち始め、須磨に近づくと震災の爪あとがさらに顕著になってきた。鷹取の駅前は火災で焼け落ちた家屋がそのまま残っており、まるで戦場を見るようだった。おそらく長田高校周辺も混沌とした状況だったはずだ。その後、復興のプロセスで街並みは大きく変わっていった。被災した跡地にはマンションの建設が始まり、周囲の建物も次第に整備されていったが、人の息づかいが感じられる商店街は姿を消した。一方、神戸市内の公園などの公有地には仮設住宅が長く残り、復興への道のりが平坦なものではなかったことを物語っていた。そんなことを思い出させてくれた長田高校の甲子園出場だった。

私はJR山陽本線、須磨⇔舞子間の車窓の眺めが気に入っている。社会人となり大阪に赴任した年のことだったろうか、初めて三宮から西に向かう列車に乗りこんだ時のことである。須磨あたりまで来ると目の前に穏やかな瀬戸内海が広がり、同時に山側には山陽電鉄の列車が近づいてきて、しばらくの間すぐ横を並んで走る。垂水の駅周辺で一旦海岸線から離れるが、またすぐに4本のレールが海沿いを併走し、舞子に近づくと海の向こうに淡路島が現れる。私は不意打ちを食らったように窓の外を見つめていた。この路線はその後も何回か乗車しているが、今では明石海峡大橋がそびえ立ち、また一段とインパクトのある景観となり、その狭い海峡を大小の船がゆったりと行き来する。この海の鯛やタコは知名度が高いが、春の風物詩のいかなごなど庶民の味にも事欠かない。かつて平氏はこの海を西に逃れて壇ノ浦で滅び、九州で再起をはかった足利尊氏は東へと進み、湊川で新田義貞、楠木正成の軍を破り京に上ったのだ。

1104-%e6%92%ae%e5%bd%b1%e5%9c%b0-%e6%b5%a6%e5%92%8c列車から眺める風景は時間に追われる出張先であっても、そんな物思いにふけるひと時を与えてくれる。子供の頃から鉄道好きだった。車両の形式や蒸気機関車の仕組みなどにはあまり興味はなく、列車のスピードを感じながら、流れる景色を見つめていると飽きることを知らなかった。特に初めて乗る路線にめぐり合うと胸がときめき、あらかじめ地図を見ながら駅名をチェックするなど準備に怠りはなかった。鉄道ファンの分類からすると“乗り鉄”ということになるのであろう。そういえば、久しく列車の旅に出かけていない。各地の紅葉情報がメディアから流れてくる。富士山頂も雪をかぶった。紅葉は一気に山を駆け下りる。里の降りてきた紅葉でも見に出かけたいが、今月は諸事情あって動きが取れない。

しかし、これはさして残念がることではない。私の本質は“乗り鉄”なのである。紅葉も桜も新緑も所詮“おまけ”のようなもの。私が列車の旅に心ひかれるのは、まだ乗ったことのない路線に一歩踏み入れるときの“ドキドキ”“ワクワク”感なのである。どうやらまた一つ楽しみが増えたようだ。本を一冊ポケットに入れ、このところ使用頻度の減った一眼レフでも担いで出かけよう。そうすればいっぱしのマニア気取りになれる。まずは手始めに最寄りの本屋へ時刻表でも買いに行こう。立冬を過ぎて風も冷たくなってきたが、私の心は春模様……。(7期:石巻)

【Kissの会 第8回投稿】「浦和のうなぎ」

7月上旬の日曜日に来客があり、定番のうなぎでも食べようかということで、江戸時代から続く老舗の一つ「小島屋」へ向かった。昼時を避けて13:30過ぎに店に到着したのだが、なんと!17組が店の軒先で待機中。通常15:00が昼の部のラストなのだが、この日は通しで営業するという。梅雨明け前にもわらず気温30度を超える暑さの中で、じっと蒲焼を待つ気分にはなれず、すごすごと退散したのだった。土用の丑の日に伴う混雑はまだ先のことと思っていたが、いやはやなんとも……。

浦和に住んで26年になるが、この地の伝統料理といえばなんといっても“うなぎ”なのである。江戸時代、中山道の宿場町であった浦和周辺には大小の河川とともに多くの沼地があり、うなぎの格好のねぐらだったようだ。これらを蒲焼にして旅人に提供したのが評判となったそうで、「蒲焼発祥の地は浦和」と主張する説もあるようだが、文献等で確証が得られているわけではなく、真偽のほどは定かではない。

浦和うなこちゃん

浦和うなこちゃん

浦和駅西口にはさいたま観光大使「浦和うなこちゃん」の石像がある。生みの親はやなせたかし氏で、なんとなくアンパンマンと一緒に登場しても違和感のない可愛らしいキャラクターなのだ。駅前は「サッカーのまち 浦和」のキャッチフレーズの下、浦和レッズの赤いフラッグに囲まれて「うなこちゃん」も孤軍奮闘中なのだが、現在でも浦和の街には盛業を続けているうなぎの老舗が数多くそろっており、遠来の客をもてなすのにはもってこいなのである。

一昨年、ニホンウナギは絶滅危惧種に指定された。具体的には絶滅危惧ⅠB類にランク付けされ、「近い将来における野生での絶滅の危険性が高い」と定義され、絶滅危惧種の3区分のうち危険度で2番目に該当するとのことである。昨今、うなぎの代用品としてナマズが脚光を浴び、あの近大ナマズが大手スーパーの店頭に並んだようだ。資源保護の観点から一定の役割を期待したいところである。

しかしながら、伝統の浦和のうなぎは捨てがたい。そのためにもうなぎの完全養殖が軌道に乗ることを祈るばかりである。あれこれ書いていると、ふっくらと香ばしく焼きあがった肉厚のうなぎに、絶妙に絡んだ甘辛いタレの味が口の中に広がってきた。ここは絶滅危惧種の話題を一旦棚上げして、この夏を乗り切るという名目で最寄りの店に出かけよう。さて、どこの店に行こうか、冷えたビールとともにうなぎを楽しむのなら、駅近くの中山道沿いの店がいいかも。いよいよ梅雨明けが待ち遠しくなってきた。(7期生 石巻)

 

【Kissの会 第2回投稿】「 開 幕 !」

対法政1回戦

4/16:対法政1回戦

東京六大学野球2016春季リーグ戦が始まった。RSSC入学以来、天気のいい週末は母校:立教大学の応援に神宮球場へ通っている。スタンドは現役学生よりも圧倒的にシニアの姿が目立つ。彼らも皆、勝敗もさることながら、過ぎ去った青春に思いを馳せ、ひと時の悦楽に浸っているのであろう。
私は試合前の練習に間に合うように球場に入る。ノックに素早く反応し、野球独特の声を掛け合いながらキビキビと動く選手たち。野球少年だった頃を思い出す。打撃は得意だったが、守備がイマイチ、特にスローイングに難があった。強肩といわれた幼なじみとは明らかに差があり、中学では野球部を選ばず、剣道部に入部した。

栃木県小山市、少年野球の盛んな土地柄だった。市街地の西側を流れる思川沿いに野球場があり、川遊びを含めて幼い頃からこの界隈によく出没していた。時はまさに高度成長期、次第に汚れていく川を眺めながら多感な10代を過ごした。今では河川敷も整備され、土手には桜並木が続いている。トンボが群れ飛ぶ湿地帯は消えたが、川の流れは大きく変わらず、水質は改善されアユも戻ってきているようだ。懐かしい風景が美しく保たれているのは心地よい。 

遅咲きの桜と思川

遅咲きの桜と思川

22歳の春、社会人としてこの地を離れ、大阪、仙台、浦和と住居を移していくことになった。振り返ってみれば、私のサラリーマン人生はおおむね順調だった。家族や職場の仲間にも恵まれ、仕事にも大きな不満を感じることもなく、それなりに充実感も味わえた。先行して逃げ切るようなタイプではなく、さりとて後方から一気に抜き去るだけの差し脚もない。馬群にまみれ、もまれながらもチャンスがあれば前に出る、そんな走り方をしてきたように思える。それが私の持ち味なのだ。

しかしながら、野球同様ピンチは必ずやってくる。9回を投げ切るのはそう簡単ではないようだ。還暦を前に妻を看取り、私はRSSCへ逃げ込むことに決めた。「学びの情熱」があったわけではなく、だた、居場所を求めただけだった。久方ぶりのキャンパスは私に様々な刺激と活力を与えてくれた。その間に一人息子も結婚し初孫も誕生した。「我が人生、まんざら捨てたものでもない」と思えてきた。

母校の開幕戦はこのところ相性のよかった法政に1勝2敗で勝ち点を落とし、エース澤田の力投も報われなかった。気持ちを切り替えよう。次は早稲田、私のセカンドステージもいよいよ開幕だ。シニアの基本は「健康管理」。まずは守備を固めて打席に立とう。相手投手と向き合ったら、中途半端はやめて腰の入ったスイングを心がけよう。この2年間で狙い球も絞れてきたはずだ。私の“2016”も面白くなりそうだ。。(Kissの会 第2回投稿/7期生石巻)

我が家のペット

unnamedL1VYA1UAおいらの名前はレオンです。先月10歳になりました。
誕生日は特別なことはなく、いつも通りの低脂肪ドッグフードだけでした。人間の年齢に換算すると56歳だそうですが、おいらはとっても元気です。

ご主人は気まぐれで散歩の時間が定まりませんが、おいらはすぐにわかるのです。「さんぽ」あるいは「行くぞ」unnamedHAG82ZFQの言葉にすばやく反応、玄関までダッシュして尻尾を振ってスタンバイ。外に出るといろんなワンコに出会いますが、おいらは吠えるワンコが嫌いです。だから、おいらはめったに吠えません。おかげで近所の子供やママ達に人気があります。ご主人は地元での知名度が低いので、おいらが代わりに頑張っています。(7期生・石巻