Enomotoの投稿

【kissの会 第179回投稿】  「我がデュアルライフ」

2024-01-21

 

13年前の東北赴任時に東日本大震災で避難所生活を余儀なくされたが、今回の能登半島地震は当時のことを思い出す。目を覆いたくなるような災害の厳しさに被災された方には心からお悔やみを申し上げるしかなく、早く日常が戻ることを願わずにはいられない。

 

その被災全貌も見えない正月明けに、目黒から相模原に2泊3日で出掛けた。都会と地方に生活拠点持つデュアラー生活の今年のスタートだった。定年退職後10年経つが、目黒のマンションを生活拠点にして、毎週のように相模原にある拠点に通う生活を続けている。

 

最寄り駅の恵比寿駅から、お隣りの渋谷駅に移動し、長年開発工事が続く駅構内を通り京王井の頭線に乗り変える。急行で下北沢に続く2駅目の明大前駅で乗り換え終点の橋本駅まで行く。神奈川中バスで10分、相模原にある拠点に到着する。約2時間の小さな旅である。車よりこの公共交通機関が読書や音楽聞けたりして便利なので多用している。

<あすの神話>

<リニアモーターカー駅/2024-01-06撮影>


JR渋谷駅と井の頭線を結ぶ渋谷マークシティ内の通路には岡本太郎がメキシコで制作したという巨大壁画「あすの神話」<縦5.5m、横30m>がある。また橋本駅は県立相原高校の跡地がリニアモーターカー駅(地下駅)として生まれ変わるべく急ピッチで工事が進められている。

相模原は半田舎と言うか、都会に近接しているが昔からの風習が色濃く残り住民の繋がりも強い。神社やお寺・自治会などの組織が機能している。この10年は夏祭り・秋祭り・スポーツ大会等の地域の活動にも参加してきた。避難所運営や交通安全&防犯活動も行ってきたが、今でも祭典相談役や地域ボランティア活動を続けている。先輩の元気さにまだ頑張らねばと思うと同時に生活の知恵も授かるのはありがたい。昨日は地域の新年会だったが、親しい友人は有事の心強い仲間である。もちろん普段からの丁寧な付き合いも欠かせない(右:リニアで街づくり推進/相模原市HPより)。

 

一方目黒は目黒川やガーデンプレイスが愛犬との散歩範囲であるが、立教大学のある池袋や早稲田大学のある中野や早稲田にも通いやすい。多くの文化施設にも恵まれてアプローチもしやすいし、属するグループのイベントや飲食会の多くが都内で行われるため参加しやすい。鍵一本で外出できて曜日を気にしないゴミ出しや宅配サービスも充実していて生活をアシストしてくれる味方だ。


デュアラー生活は経済的&時間的負担もあるものの、移動で得られる情報は生活の質向上や活性化に貢献してくれる。当初予定より開業が遅れそうだが、リニアモーターカーが開通すれば橋本駅と品川駅を10分で繋いでくれる。100年に一度の再開発と言われる東京変貌も進み渋谷、品川、築地、湾岸エリヤも大きく変わる。

 

目黒川周辺はもうすぐ桜も咲く。都会と田舎の利点を享受し好奇心を満たしてくれるデュアルライフはもうしばらく続きそうだ。(7期 榎本)

 

 

【Kissの会 第168回投稿】 「薩摩黒島」

2023-08-11

 

「娘家族が春から夫の転勤で離島に行くことになった」と姉から連絡あったのは2年前の新春だった。鹿児島県内の教師は離島への赴任ノルマがあり、その島は生活環境が厳しいので最低3年が条件だそうだ。鹿児島出身の私もそんな島あったかな?と初耳だったので早速調べてみた

その島は黒島といい他の黒島と区別するために薩摩黒島(右写真)とも呼ばれる、鹿児島県鹿児島郡三島村の一つだった。面積15.37km2、人口176人(R5.7.1現在)の島へは三島村所有のフェリーでしか行くことができず、片道5時間、週4便、出航は天候により当日決まるという。「その島行ってみたいなぁ」と漫然と思っていたら、コロナ規制が緩和される今年5月に延び延びだった高校のクラス会が開催されることになり島に行けるチャンスがやってきた。 


現地の民宿が確保できず、姪っ子宅宿泊可能人員から、5月下旬義兄と二人で鹿児島港発のフェリーみしまに乗り込んだ。170人乗りの船は乗客20人程度の貸し切り状態だった。空気は澄み、船上からは桜島、薩摩富士と呼ばれる開聞岳が見えて、海は青くトビウオが宙を飛び、海風も心地よかった。波も穏やかな航海日和だった。

鹿児島港を出て3時間、最初に寄港したのが竹島、次が海底温泉水で真っ茶色の港の薩摩硫黄島だった。入港するとジャンベ(太鼓)とダンスで賑やかな歓迎をしてくれた。そして目的の黒島大里港に到着し、迎車で急斜面を上ったところにある家に到着した。島は平坦な所がなく隣の家ですら段差があった。移動には車が欠かせず昔は牛だったという。

 

家族4人に我々含めて6人での賑やかな夕食を終え蛍狩りに行った。車で5~6分走った山の中腹で蛍10数匹を見て童心に帰り、子供たちと大はしゃぎした。狭い官舎だったが、川の字に寝るキャンプ気分の楽しい一夜だった。


翌日は早朝に出掛けた釣りキチの義兄の後を追い、釣りをしていたら台風の影響で帰りのフェリーが前倒し運航になったという。そのため引率で行く予定だった本土への修学旅行も延期になったという。日常茶飯事の変更に従い釣りも早々に切り上げた。それでも口髭のあるスズキ科のおじさん(右下写真)など15~16匹の釣果だった。

朝散歩しながら採ったという山菜や釣った魚、庭に生える大名竹など都会では味わえない新鮮で贅沢な昼食だった。密な人間関係にも慣れ不自由な生活を楽しんでいる様子や、素朴な島の子供たちと過ごすのは楽しく、3年超えても勤務したいなど本音も聞けた。ただ家族の食材を確保するだけでも一苦労で、長期保存食が頼りだというのも事実だった。


昼食後は展望台や、歴史ある木造の学校を見学に行った。学校は三島大里学園といい全校(1~9年生)生徒20名程度で一人だけの学年もあるそうだ。学校は貴重な平坦地にあり自然災害時は唯一の避難場所になっているという。教室では日曜日にも関わらず先生とそのお子さんが勉強していたのも離島ならではの光景だと思った。

 

旅行後、友人から紹介された唯一薩摩黒島を舞台にした小説、有吉佐和子著「私は忘れない」を読んだ。映画化もされたというその中心人物で東京から黒島に行った女優門万里子の体験を少し理解できた。便利すぎる都会とは両極端のコンビニ、スーパー、商店、飲食店等はなく自動販売機が一台あるだけという不便な島で、自然と生きるには、家族のあり方とは、地域の助け合いとは、など人間の生き方を考えさせられる旅だった。(7期生 榎本)

 

 


【Kissの会   第157回投稿】   「穏やかな年でありますように」

朝、目覚めると階下のダイニングキッチンから笑い声が聞こえてくる。行くと目の前の海に沈めておいた網にタコが入ったという。引き上げて見せてもらうと、タコがもがいている。前日入ったカニを目がけて入ったものだという。ダイニングキッチンからガラス戸一枚隔てた民家なら庭のある場所が海なのだ。その水深2Mくらいの海底が見える場所に毎日網を沈めている。若女将と女性スタッフで朝から盛り上がっていたのはこのタコだった。魚はよく入るそうだが、タコは月一入ればいい貴重な獲物だという。この日は偶然とはいえ、タイミング良く海と密着した日常を見せてもらった瞬間だった。ただ、網を沈めるにも漁業権が必要な、歴とした漁業なのだそうだ。

2023-02-11


ここはコロナ過で延び延びになっていたが、昨夏実現した京都の伊根旅で船宿を始めた若女将の宿に連泊した。日本の原風景のような地域で、今でも海際に立つ舟屋が230軒ほどある。東京から東海道新幹線で京都駅へ行き、嵯峨野線、山陰本線、京都タンゴ鉄道と乗り継ぎ天橋立駅へ、そこから路線バスでたっぷり1時間かかった。東京から7時間かかる陸の孤島のような場所でもある。


舟が収納できるようになっている舟屋は、舟が自家用車の役目を担っている。火事やお産、そして急病人も海からの援助ができ、湾内周遊したいと携帯で連絡したら、船が宿に横付けして移動することなく遊覧船に乗り観光することができた。海上タクシーも呼べばすぐに来てくれる便利さである。「津波は来ないのですか?」と問うと、半島と湾中央にある青島が、自然の防波堤の役目を果たし津波被害はないのだという。年間の海面の高低差も80cmしかないのだという。日本海に面していることを忘れ、どこかの湖畔にいるような錯覚に陥る。鎌倉時代に集落ができたというが、長い歴史を守ってきたのは、たぐいまれな地形にあったのだとわかった。海近くで育った私には郷愁すら感じた。

 

昨年はスポーツ界ではサッカーや野球で明るいニュースはあったもの、ロシアのウクライナへの侵攻、韓国の雑踏事故、北朝鮮の弾道ミサイル、国内でも安倍元首相の銃撃事件と国葬、教団と政治癒着、円安と物価高、知床で観光船沈没など気持ちの安らぐ暇もない荒れた年だった。 

前月投稿(1/11)で箱根駅伝の走者の名前(約20年前に誕生した男の子)が掲載されていましたが、昨年生まれた男の子の名前で急浮上して多かったのが「凪」だそうです。コロナ過で平穏とか穏やかといった願いが込められたようです。今年は伊根湾の凪のような穏やかな年になることを切に願うばかりです。  (7期生 榎本)

 

 


【Kissの会 第146回投稿】  「民宿」

 2022-08-11

  

旅好きには計画段階からワクワクがはじまる。今年の4月JR東日本大人の休日倶楽部で函館から南会津まで4泊5日の旅をした。宿未定の旅は醍醐味があり好きなのだが、今回は旧友との約束もあり1泊のみ宿未定の旅となった。

旅程も決まりチケットの手配も完了した頃、福島県沖地震で東北新幹線の車両脱線事故という甚大な被害が発生し、一部区間が不通になった。その区間は普通列車でも行く覚悟だったが、復旧作業が奇跡的に前倒しになって東京から函館まで直通で行けることになった。再開通初日が旅の初日となった。はじめてグランクラスにも乗ることもできた。東京駅のビューゴールドラウンジで接待を受け、座り心地のよいソファーで快適な旅のスタートとなった。グランクラス車両は独り占めで、豪華お弁当にお茶やコーヒーのサービス、ビールやワインも飲み放題だった。リクライニングチェアーに寝る間もなく函館に到着した。

旧函館区公会堂


函館での2泊はこれまでの復習のように、活イカやジンギスカンを食べ、旧函館区公会堂など周辺観光を楽しんだ。3日目は旅の目的でもある一関(岩手県)で旧友と合流し、閉店するという店に挨拶に行った。東日本大震災時にお世話になった数々の恩を少し返せた気分だった。

 

4日目いよいよ宿未定の日だ。南東北は丁度桜開花の時期、福島県郡山駅で下車し磐越西線に乗ることだけを決め、新幹線に乗り込んだ。もう一度三春の滝桜もいいなと思ったが、早くも散り始めたという。会津方面に行こうかと調べていると、湯野上温泉が桜満開そして民宿があることがわかった。口コミでも高評価、宿の予約をとり、磐越線に乗り換え、只見線~会津鉄道と乗り継ぎ、湯野上温泉駅に着いた。レトロな駅に映える満開の桜に心が躍る。

 

宿の迎車で約10分、玄関で中国人独特のなまりのある女将が弾ける笑顔で迎えてくれた。実家に帰ってきたように和ぐ。宿泊者は3部屋3名の男たち、順次源泉かけ流し風呂に入りお楽しみの夕食だ。大部屋に5~6名は座れそうな中華テーブルが3卓、それぞれ卓につく。好物の会津の馬肉・アユの塩焼きに、料理好きだという女将の手料理が並ぶ。頃合い見て娘さんが熱々のスープや餃子を運んでくれる。どれも美味しくお酒も進む。初対面の宿泊客は宿の常連さんで他愛無い会話が弾む。

湯野上温泉駅

大内宿

大内宿(売店)


翌朝宿近くの大内宿に行くつもりだと言ったら、女将が御主人に相談し案内を買って出てくれた。早めに朝食済ませ大内宿に行ったら、こんな静かな大内宿があったんだと驚く。原宿竹下通りのような賑わいしか記憶になかったが、朝早く来たご褒美だ。寡黙な人と思っていたご主人も、饒舌で、地元愛に満ち滔々としゃべる。上海出身の奥様の提案で15年前に農家民宿をはじめたこと、娘が韓国留学時に知り合った韓国人と結婚し仕事しながら宿の手伝いをしてくれること、温泉のある故郷で生活できる幸せなどを語ってくれた。人懐っこい笑顔で道すがらの挨拶で地元のムードメーカーであることも伺える。仲良しのグローバル家族から幸せを分けてもらった気分である。

送ってくれたご主人に感謝と南会津への再訪を約束し、湯野上温泉駅を後に鶴ヶ城へと向かった。旅行後宿の口コミにも評価を書き込んだ。コロナ陰性証明書を携えての旅は、旧友との再会、グランクラス体験とご当地グルメ、そして超満開の桜に出会えた。

 

しかし今回の旅のいちばんの収穫は、温もりのある料理、見知らぬ人との交流、心の通うおもてなしの民宿に出会えたことだ。民宿という選択があることに改めて気がついたのだ。さあ、次はどこに行こうか。(7期生 榎本)

 

 

【Kissの会 第135回投稿】   「春がくる」

2022-02-11

 

子供の頃の冬の行事を想い出す。大晦日になると自家栽培した蕎麦の実を、石臼で粉にするのは子供達の仕事だった。その挽きたての粉で作った年越し蕎麦を食べ終わったら、「気をつけて行ってこい」と家族に励まされ公民館に集る。そして一路鹿児島神宮を目指して走る。神宮があるのは国道10号線を東に向かって約10キロの隣町(現在霧島市)隼人町にあった。桜島と錦江湾を臨む家々に手作りのしめ縄が飾られている道を、励まし合いながら進む。除夜の鐘が鳴る前には神社に到着し、長い列に並び、新年を迎えると同時に参拝する。参拝が終わると、境内の焚火で身体を温めて現地解散し、家の近いもの同士でグループを作り帰宅する。寝静まった家人が目を覚まさないよう、そっと布団に潜り込むという恒例の行事があった。

 

この集まりは郁文館と称し、薩摩藩独自の青少年教育制度「郷中教育」だ。郷中とは今でいう町内会単位の自治会組織であるが、そのうち年少者は稚児(ちご)と言われ、先輩が後輩を集団で指導する。我々の地区は小学4年生から中学2年生の男の子25~26名で構成されていた。最上級生となった中学2年生が稚児リーダーになり、後輩の心身を鍛えるため、躾・武芸・詩吟・歴史や座禅等を教える。

<(上野) 西郷像>


鹿児島神宮初詣の他に、夏は霧島高原でのキャンプ、校庭でのサッカーや野球・肝試し等があった。西郷隆盛も稚児リーダーだったというが、この郷中教育では「負けるな」「嘘をいうな」「弱い者いじめをするな」という3つの教えを大事にしていたが、西郷さんは「弱い者いじめをするな」を特に大事にしたという。キャンプでは飯盒炊爨して自立の第一歩を学んだのもここだった。今思えば大人がいなくてよく運営されていたなと思う。先輩は何でも丁寧に教えてくれた。学校では学べない、集団生活のルールや先輩や後輩に対する礼儀を学んだ。

 

今年は西郷隆盛ゆかりの目黒不動尊に初詣に行った。藩主島津斉彬が病に倒れた際、境内にある独鈷の瀧で、水ごりをし回復を祈願したというお寺である。参道には焼鳥屋、おでん屋、お好み焼き屋などが立ち並び、コロナ禍を忘れる賑わいだった。射的屋では上手に商品を落とす子供たちに、大きな声援ならぬ拍手喝采だった。

<御神馬>

鹿児島神宮には早春を告げる初午祭があり、鈴掛馬踊りがある。500年近い歴史と伝統があるお祭りで、毎年旧暦の1月18日を過ぎた最初の日曜日に境内で開催される。祭りの一番手が地域(木田地区)の馬で「御神馬(ごしんめ)」と呼ばれ奉納踊りを行う。「背中に色とりどりの飾り、首に鈴をつけた馬が、踊り連を引き連れて太鼓や三味線や鉦にあわせてマンボのように踊る様子は珍しい。県内外から多くの観客が訪れる。今年も縮小して2月20日(日)に開催されるようだ。

 

故郷を離れ半世紀、今年は古希を祝って高校のクラス会をやろうと盛り上がっている。会場は鹿児島神宮近くのホテルを予定しているが、コロナ禍で開催時期が難しい。クラス会には大晦日に走った幼友達や親友がいて、再会が待ち遠しい。

 

もうすぐ春がくる。  (7期生 榎本)

 

 


【Kissの会 第124回投稿】  「東京五輪に学ぶ」

    2021-08-11 

 

新型コロナウィルス緊急事態宣言下、五輪反対の活動が続く中、一か八かで開催された東京オリンピックが閉幕した。メダル58個(金27銀14銅17)と多くの感動ドラマを見せてくれた。

 

想い起こすと前回(1964年)の東京五輪は小学校6年生、学年別に150名程度が講堂に集められ、会場規模に相応しくない小さなテレビの前に行儀よく並んで観戦した。マラソン銅メダルの円谷幸吉選手がアベベ・ビキラ選手を必死に追う姿が脳裏に残る。甲州街道を走る選手に破れんばかりに日の丸を振る姿も残る。柔道・体操・レスリング・バレーボール等が活躍し、スポーツが勇気と感動を与えると知った。努力する大切さ、諦めない大切さ、そして成績優秀者に表彰台とメダルが与えられ、それを称えるマナーも教わった。

 

復興五輪と銘打った2度目の五輪が決まったのは2013年9月だった。またやるの?と思ったが、決まったからには応援しようと決めた。観戦チケットの抽選は2019年夏九州の友人達の期待を背負って臨んだが見事に外れた。友人達との観戦を諦め会場の雰囲気だけでも感じたいと臨んだ二次抽選で権利を得ることができた。しかし新型コロナウィルスで一年延期になり、そして開会式の2週間前には無観客が決まり入場できなかった。

 

参加の国や地域は前回より倍増の205、種目も倍増し史上最多の33競技339種目、新たに空手・スケートボード・サーフィン・スポーツクライミングの4競技も加わり、12歳・13歳の日本のメダリストも誕生した。

しかし一億総評論家と言われる時代だが、腑に落ちない事が多かった。まずは遅い決断は大きな無駄を作ったなぁと思う。1年前に延期でなく中止できていたら、また開催するにしても、無観客を早期に決断していたら、多くの資源(人・物・金・情報)の無駄が省けただろう。この一年間メディアは開催か無観客か等実りない議論に明け暮れた。観客施設やボランティアも無駄になった。高校時代のクラスメイトが子ども食堂を運営していたが、コロナの為に食堂を中止して生活困窮者へのドライブスルー方式の食材配布をしている。食材調達の苦労を考えると、お弁当の大量廃棄は悲しい。

 *たらの芽会(click ! ☞) https://www.facebook.com/higejii.k/ 

 

五輪開催を苦しめた真犯人の新型コロナウィルスに、政府と民間が協力して立ち向かえたか疑問だ。台湾の天才デジタル大臣の唐鳳(とうほう、オードリー・タン)が「民間と政府のコミュニケーションの促進と強化」を掲げ「政府の官僚や大臣が何をやり、何を考えているかを全部知ることができ、人々が「国家の主人」になれる」そういう国造りを目指したいという。この理想的なビジョンに学びたい。情報開示と説明責任、透明性で、信頼関係を作り真の敵に立ち向かいたいものだと思う。

今回の五輪で子供たちは何を学んだのだろう。同年代がメダル獲得しメダルを身近に感じたことは確かだろう。出番は少なかったが、小学生の投票で決まったミライトワ(「未来と」と「永遠」)とソメイティ(桜のソメイヨシノと「so mighty」)に「強くあれ、そして自然に優しい人に育ってほしい」という願いが込められているという。強く優しい未来を子供たちに託したい。

 

入場できるかどうかわからないが、まもなくパラリンピックがはじまる。アスリートには悔いのない自己ベストのパフォーマンスを願い応援することにしよう。             (7期生 榎本)

 

 

【Kissの会 第113回投稿】  「地縁」

2021-02-21

 

定年退職を迎えた7年前の冬、赴任先だった福島から帰る日だった。東北新幹線東京駅で中央線に乗り変え、新宿駅で京王橋本線に乗り換えた直後スマホが震えた。自宅到着予定を尋ねる電話で、自宅に着くと玄関に熨斗付き一升瓶抱えた人達が待っていた。自治会役員として迎い入れる挨拶で、後日その人達は役員選考委員会メンバーだったことがわかった。会との密なお付き合いの始まりだった。

御嶽神社の獅子舞(文政4年~)


自宅はマスコミに登場することの少ない相模原市にあり、最近は橋本駅前にリニア中央新幹線の駅ができるというので知名度も上がりつつある。神奈川県の北に位置する人口72万人、自治会数約590の一つに加入率は約50%700世帯の我が自治会がある。戸建て子育て世代が多く、こども会や中学PTA活動が盛んな地域である。

 

定年後の地域ボランティア活動と軽い気持ちで引き受けたが面食らうことばかりで、学ぶこともとても多かった。自治会は13班約50名の役員で運営するが、うち7名の本部役員が運営の中心となる。地域清掃、夏祭り(こども神輿)、秋祭り(例大祭)、スポーツ大会、防犯パト、どんど焼きなどの年中行事が行われる。地域内の小さな神社の境内が主会場となる。中でも8月下旬の例大祭は、境内狭しと屋台が並び、演芸大会もある晩夏の一大行事となっている。

御嶽神社記念碑(H5年)

日本のフォークソング全盛期「今日でお別れ」「また逢う日まで」がレコード大賞という時代に人口29万人で急成長する相模原に縁ができた。以来生活拠点となっているが、自治会と関わるまでは知らないことばかりで、自治会の境界線も知らなかった。自治会活動のお陰で、近所の人との気軽なコミュニケーションや地域の課題を共有する遅ればせながらの地域の仲間入りだった。街灯やカーブミラーそしてゴミ置き場の新設で生活環境改善にも貢献した。

 

本部役員は会長職も含んで一連の役割を終えるのに7年間を要する。現在最終年で防犯部門や避難所運営を担っているが来月で終わる。役員選考委員としても新たな役員にバトンを渡す目途もたち、今後は地域のボランティアや祭典相談役として、地域を見守り後輩を応援することになる。


神社は氏神と氏子で地域を盛り上げてきた歴史があるが、その神社に導かれ地縁を得たように思う。無縁社会化している現代、要不要論ある自治会だが、地方ではまだ伝統の継承やセーフティネットの役割を果たしていると思う。そして何よりこの地で生まれ育つ子供にとって故郷を伝えるのは大事だと思う。新型コロナで様々な行事が見送られたが、今年は神輿を担ぎ地域を練り歩く元気なこどもの声を聞きたい。これからも地域と後輩にエールを送り続けたい。(7期生 榎本)

 

 

【Kissの会 第102回投稿】 「単身赴任の効用」

 2020-08-21

 東口広場には生涯5千曲作曲したという古関裕而氏が笑顔で電子オルガンを弾くモニュメントがある(写真左)。モニュメントからは30分毎に古関メロディが流れる。西口広場にも時計のモニュメントがあり鐘の音と共に古関メロディが流れる。ここは、西は奥羽山脈、東に阿武隈高地に囲まれた盆地、くだもの王国福島県福島駅である。東日本大震災直後に赴任したサラリーマン生活最後の地である。

 

会社は駅前の住まいから車で30分の小高い丘にあった。初雪の頃決まって普通タイヤのままで坂道を登れない車がいて、大渋滞したのを思い出す。退社後は駅近くの店での夕飯が常だった。週末は近くの温泉や蕎麦屋を巡った。会津や喜多方また米沢や仙台も日帰り圏内、三春の満開の桜は脳裏に焼き付いている。散歩がてらの花見山公園も忘れられない。もちろん遊んでばかりではなく、セルフヘルプなので掃除洗濯料理し料理教室にも通った。インストラクターの綺麗な女性と食べる男の料理は格別に美味しかった。蕎麦打ちを習い道具を買い揃えたのもこの時期だった。 

 

単身赴任が始まったのは30代半ば、会社の単身赴任寮に宿泊し、週末帰る生活だった。その後も通勤可能範囲の勤務地だったが、遅くまでの仕事が多く、勤務地近くに宿を確保し週末帰る生活を続けたが、50代半ばに東北に赴任し最後が福島だった。

 

これまで東日本大震災被災含め災難を経験してきたが、年初からのコロナ禍は世界規模で災難の質が違う。古い例えだが「亭主元気で留守が良い」実践者としては、自粛の座敷牢生活は辛い。最初は自宅時間が長くなり些細なトラブルが発生する。特に日に三度の食事はその要因だった。しかし早々に単身赴任の精神(自助)が大事なことに気がついた。幸いに我が家は購入惣菜中心の生活、食料品店は封鎖することなくお惣菜を売っている。それを主体的に調達し、食べたい料理は自分で作ればいいのだ。今では調理レシピも増えてきた。しかも近所の専門店の「テイクアウトできます」は、食卓のレパートリーを増やしてくれる。台所に立つ時間も増え、我が家の新生活様式は定着してきた。

予定通りなら今頃東京オリンピックの閉会式が終わり、パラリンピックがはじまり、車椅子ラグビーや陸上競技、マラソン観戦を楽しみに待つ時期だった。来年のオリンピックは開催できるか。そして聖火リレーは福島からスタートするか。

「みんなにエール 栄冠は君へ、ふくしま💛」(右写真)という駅弁が福島駅などで販売されている。朝の連続テレビ小説と夏の甲子園大会歌からの命名で、古関裕而氏にちなんだもの。

高野連の粋な計らいで、今年の夏の甲子園は春センバツの交流試合が行われ今週閉幕した。ウィズコロナの応援歌として陸上自衛隊の歌姫、鶫真衣(つぐみまい)が、全国高等学校選手権大会歌「栄冠は君に輝く」(左画像をclick)を唄っている。毎夏聞くこの歌は時代を遡りエールをもらう。厳しい残暑とコロナ禍を乗り切りたい。(7期生 榎本)

 

 


【Kissの会 第88回投稿】      「新春に願う」

 2020-01-21

 

年末、新宿紀伊国屋書店を覗いた。本の帯に「カッコいいを考えることは、いかに生きるべきかを考えることだ」「それは人間にポディティブな活動を促す大きな力」とある。さらに「カッコいいという価値観と無関係に生きている人間は、今日一人もいないのでは?」とある。妙に納得し、確かに行動や言動の基準にカッコいいがあると思った。*本の著者は平野啓一郎

 

年号が改まった昨年もいろいろあった。連日メディアを賑わした「桜を見る会」の公文書廃棄や支持者招待、説明回避はモヤモヤ感が残る。統合型リゾート施設事業の賄賂問題や、原発マネー還流疑惑も困ったものだ。弱者いじめも後を絶たず、京都アニメーション放火事件も残念だった。 

一方、ノーベル化学賞受賞者吉野彰氏のユーモア溢れるインタビューは、何度みても素敵だった。信念持ってアフガニスタンを緑化した中村哲医師にも頭が下がる。ワールドカップラグビー日本代表の、活躍と清々しさは日本中を感動させた。スーパーボランティアと呼ばれる尾畑春夫氏の、ジョーク交じりの言葉にはしびれた。そして新春の箱根駅伝の、青山学院大学の復活優勝にも感動した。カッコよかった。 

私事だが反省することが多々ある。その一つに仙台文化横丁の老舗居酒屋でのことがある。美人女将が接待するカウンターだけの店だが、そこでは豊かな時間が流れる。客は暗黙の流儀で静かに楽しむ。ある日一見客らしきグループが入店、徐々に会話のトーンが上がる。我慢の限界を超え「うるさいよ!この店は君らのように騒がしく飲む店じゃない」と叫んでしまった。店内の雰囲気を一瞬にして壊してしまった。女将に「私が注意すべきでした」と言われたが、馬鹿な事を言ったなと恥ずかしくなったがあとの祭り。小さな正義感が瞬間湯沸かしのように頭をもたげたのだ。女将通じて注意するなり、黙ってその場を離れるのが礼儀だった。カッコ悪かった。

 

カッコいいの語源は「格好」音楽関係者が使い始めたようだが、1960年代以降爆発的に流行し、現在でも使われる。一時の正義感からではなく、自然体で普遍的なカッコいい行動、言動が望まれる。ジャズやロック奏者のようなカッコよさは真似できないが、実質的なカッコよさは見習うことができる。幸いカッコいいを間近に感じる機会に恵まれているので、具体的カッコいいは見つけやすい。

 

今年は小さくても新たなカッコいいを追い、行動や言動に反省の少ない年にしたい。そして東京オリンピック・パラリンピックの年、カッコいい出来事が数多く報道される、そんな年になることを願う新春だった。(7期 榎本)

 

【Kissの会 第77回投稿】 「弥次喜多珍道中」

2019-06-21

 

今月上旬午前6時50分東京駅銀の鈴に集合した。夫婦3組6人の珍道中の始まりだ。東北新幹線で北上し仙台駅に降り立つ。プロ並みの運転担当が、松島に向けワンボックスカーを走らせる。はじめて訪れる夫婦もいてまずは松島湾一周クルーズ。五大堂・瑞巌寺と巡り、塩釜神社でお参り。初日最終地点の秋保温泉ホテル瑞鳳に到着。

 

ホテルスタッフがお出迎え。バブル時に建てられたという館内は滝が流れ、錦鯉が泳ぐ豪華仕様。次の間付きの広い和室。岩に囲まれた6種類の露店風呂がある地下風呂。そしてライブ感満載のビッフェスタイルの夕食に大満足。恒例の部屋での二次会。身辺ニュースや夫婦間の愚痴までも、ユーモア交りに本音が飛び交う。話題は尽きない。笑いっぱなしで深夜になり就寝。

 

翌朝は、一日おはぎが1万個売れるという恐るべきスーパーマーケットに立ち寄る。明るく丁寧な店員さんの笑顔がいい。秋保大滝(写真右)、青葉城址と見学。そして外せない老舗での厚切り牛タン定食。全員完食。土産物を買いこみ新幹線に乗る。あっという間に上野。駅構内蕎麦屋で打上。今年も笑いの絶えない愉快な旅が終わった。 

夫婦数組の旅の始まりは20年以上も遡る。飲み屋で妻帯同旅を計画し、毎月積立し、ゴールデンウィークを利用した旅が始まった。現地法人(タイ・バンコク)の友人を訪ねたのが最初だった。その後ヨーロッパ各国やカナダにも行った。少しのメンバー変更はあったものの、現在の夫婦3組になってから10年、オーストラリアにも行ったが、最近は国内になった。旅行先は、東北、屋久島、能登半島、山陰山陽、北海道、昨年が紀伊半島、今年が宮城だった。

 

旅の流儀は企画段階から全員参加。全員の意向が反映できる手順を踏む。今年も2月には有楽町で旅先候補の絞り込み。5月には下北沢で旅の行程を確認検討した。そして6月本番、9月には新宿で反省会と来年の検討会を予定している。

 

この旅は妻たちへの労い旅でもある。優先権は妻たちにある。日頃の夫婦のコミュニケーション不足を補ってくれる貴重な旅。妻たちも姉妹のように仲良くなり、毎年の旅を楽しみにしている。半世紀近く付き合う先輩は、思いやりとユーモアで道中をリードしてくれる。そしてメンバーはそれぞれの持ち味で旅を支える。 

 

長く続く旅行会も最高齢者が古希を過ぎ、最年少者も還暦を迎えた。しかし気心の知れた仲間との旅はとても楽しい。来年はどこにしようか、我らの弥次喜多(写真左上)珍道中。(7期生 榎本)

 

【Kissの会 第68回投稿】 「Kissの会投稿通算100号達成御礼!!」

2019-01-21

投稿サークル「Kissの会」は2016年4月にスタートした。発足動機は第1号にあるように頭の老化防止や日々への小さな刺激を期待したものだった。期待通りかどうかは皆様の評価次第ですが、メンバーとゲストのご協力により通算100号(前回)となりました。投稿戴いた各位に心より御礼申し上げます。

 

投稿を振り返ると、投稿者は36名(男性20名、女性16名)RSSC本科7期生の4割となりました。豊かな感性でシニアライフを過ごされているからこその余韻残る内容ばかりで、投稿タイトルだけで、その一つ一つが鮮明に甦ってきます。

 

お正月やクリスマス、また春夏の思い出や、秋の味覚など季節のテーマが最も多かった。季節は様々なものを残してくれるものだと再認識しました。次には多彩な趣味に関するもので、太極拳、ジャズ、ヨット、旅、読書、車、スポーツ観戦、映画歌舞伎など多様でした。三番目は、街やお城や公園また故郷などの紹介で、なるほどそういう場所だったのかと再認識しました。そして「終の棲家」「老いを楽しむ」「フードロス」など、日常を感性豊かに捉え伝えるもの、新たな知識を得る教養、健康に関するもの、どれも投稿者のメッセージが伝わってきました。

 

紹介記事がきっかけとなり、いくつかのイベントに発展しました。第23回投稿に誘発され下町散歩が実現しました。すみだ北斎美術館を訪ね、夕暮れの屋形船の浮かぶ隅田川沿いを散策し、浅草で蕎麦と日本酒を堪能しました。この江戸情緒再発見の様子は、第42回投稿でも知ることができます。またゲスト第7回投稿から、難攻不落と言われた小田原城を訪ねました。天守閣の修復直後のお城、ガイド資格をもつ投稿者にもう一つの小田原城を案内してもらいました。第9回投稿から、しあわせを育てる森という赤城自然公園に行きました。やはり投稿者の案内で、秋の紅葉と春の新緑のそれぞれの季節を楽しませてもらいました。更には第18回投稿から、長年ジャズを愛好する投稿者が、銀座ではじめての発表会を行うことになりました。会関係者も参加させてもらいましたが、素敵なジャズライブとてもいい思い出になりました。投稿が様々なイベントの具体化を後押しするなんて、会の存在意味があるなと思う瞬間でした。  

加えて、RSSC本科卒業以来の、沖縄からセーリングの便りや、闘病からの奇跡的生還など嬉しいニュースも投稿で知ることができました。7期生の集う場で「もう投稿した?」「投稿してよ!」等の会話が交わされ、投稿を後押ししてくれたこともありがたい要因でした。

 

これからも未投稿のRSSC7期生に広く投稿して戴くこと、ゲスト投稿者が2回目、3回目と投稿して戴ければと願っています。投稿が「感性の覚醒」「観察力と好奇心」になり、頭の老化防止、日々の暮らしへの小さな刺激になり、150号、200号と続けられるいいなと思っています。投稿を楽しみに待っていますという嬉しいメッセージも戴いていますが、皆様からの読後感や忌憚のないご意見お待ちしております。

 

平成から新元号と変わる節目の年、皆様の健康とご多幸をお祈りいたします。(七期生 榎本)

 

【kissの会 第57回投稿】「愛犬みみちゃんへ」

2018-07-24

貴女が我々夫婦(父と母)のもとに来て、十一回目の誕生日、人間年齢で還暦を迎えましたね。何気なく立ち寄ったショップで、ひと目惚れ、その日のうちに家族の一員になりました。ペット禁止マンション、大急ぎで引っ越したのが、昨日のことのようです。食いしん坊で、寂しがり屋で、人見知りだけど、その愛くるしさで、すぐに夫婦の要になってくれました。

 

九州での結婚披露宴には、飛行機で一緒に行ってくれましたね。それも四回も。一緒に行きたいという母の我儘、怖い思いさせました。一緒に行けない旅行、特に欧州旅行の時には、長いホテル生活、心細く寂しかったことでしょう。ごめんなさい。旅行中は、ホテルからの写真付きおやすみメールが、慰めになりました。

 

また父が東北に単身赴任中は、母の励みになってくれました。新幹線で何度も赴任先に来てくれて、元気をもらいました。丁度来訪中のときに、東日本大震災に遭遇し、避難所生活も体験させてしまいました。新幹線も動かず、飛行機も飛ばず、長引く滞在では、周りの人にお世話になりました。

 

そして毎日の散歩中、知らない人と、瞬時に打ち解けられるのも、人気者の君のお蔭です。しばらくぶりに帰宅すると、玄関の扉を開けると同時に、飛び込んできて、全身で歓迎してくれるのも、とても嬉しいです。

でも本当に御礼を言いたいのは、母がメンタル面で、とても強く逞しくなったことです。仕事に私生活に、明るく前向きになったのは君のお蔭です。黙ってずっとそばに寄り添ってくれることが力になり、精神科医を超えるセラピーになったのです。

 

そういう君も、母より一足早く還暦を迎えました。幸いにも大きな病気にならず、事故にも会わなかったけど、睡眠が長く目も白くなったように感じます。これからも適度な運動、そして食いしん坊だけど食物にも注意し、そして小さな体調変化にも気をつけましょう。かけがえのない君と、一日一日を楽しく暮らしていきましょう。

これまでありがとう、これからもよろしくお願いします。(7期生 榎本)

 

【Kissの会 第47回投稿】「冬のご褒美」

2018-02-21

 

平昌冬季オリンピックも終盤に入ったが、厳冬期になると思い出すことがある。岩洞湖でのワカサギ釣りだ。盛岡市藪川、北上川の上流丹藤川のダム湖。マイナス35度の記録が残る、本州で最も寒いという。55歳の時、岩手県一関市に赴任、直後、割烹料理屋で隣合わせた男と、意気投合した。

 

釣りキチだった。特にワカサギ釣りは、地元でも有名な名人だった。前泊した彼の家を朝4時に出る。東北自動車道を北上、盛岡ICで降りる。一般道を35キロ、スリル満点のアイスバーンを登り、標高700メートルの湖畔に到着。辺りは真っ暗、目指す目標地点まで、湖上をひたすらソリを引く。釣り穴をあけ、テントを貼り、明け方釣り開始。氷点下15度、6~7時間が勝負だ。

 

釣った後は湖畔の食堂で、熱々の薮川そばを食べる。冷たい体が温まる。格別に旨い。釣果を仲間の割烹料理屋に持ち込む。手早く串焼・天婦羅にしてくれる。しかしやはり鍋が一番。上質なワカサギだからこそできる。京都で修業したマスターの出汁で、味も引き立つ。蕎麦屋のドロドロした乳白色のそば湯で、焼酎を飲む。これぞそば湯だ。釣ったワカサギは、お酒も進む。至福のひと時だ。南国生まれ、生涯一回経験したいと挑んだ氷上釣りは、3年続いた。   

何故か東北が好きだ。特に青森が好きだ。「冬は青森に行こう」と、今年で5年目になった。記録的な大雪の東京を後に北上、3時間半。青森は吹雪いていた。駅前のホテル近く、看板のねぶたが迎えてくれる。夫婦で営む、小さな店。「旬の刺身を味わうちょっと盛り」「ホタテの貝焼き味噌」が人気。地酒が合う。今年も青森に来たなという瞬間だ。女将が「うちの貝焼き味噌、大きすぎてごめんなさい」と謝る。鍋代わりの貝殻が20センチはあろうか。具沢山すぎて、他の料理が食べられずにごめんという意味だ。大満足。翌日は五能線「リゾート白神」で、津軽弁「語り部」と津軽三味線の生演奏を聴くはずだった。しかし急用でドタキャン。冬の日本海絶景コースは、来年に持ち越しだ。 

 

何故青森が好きなのかと自問する。「静は動を知り、寒さはあたたかさを感じるため」というフレーズにうなずく。日本の原風景が残る。実家に帰ったように迎えてくれる。ワカサギ釣り名人と酒を酌み交わすこともできた。来冬も青森に行こう。来月は桜だ、花見だ。思い立ったらすぐ行動だ。(7期生 榎本)

 

【Kissの会 第33回投稿】「天下の奇習 クモ合戦」

今夏、私を乗せた全日空機は羽田空港から西南西に約1000km(1時間40分)の鹿児島空港に着陸した。空港は標高272mの高台にある。迎えの車で九州縦貫道に沿う県道56号線を走ること10分、車数台駐車できる展望台がある。眼下に蛇行する川、見慣れた町並みが拡がり、その先が錦江湾だ。鹿児島のシンボル桜島も見えてくる。懐かしい町に帰ってきたことを実感する風景だ。若い頃はお盆や正月、最近は冠婚葬祭や同窓会などで帰ってくる町である。

 

ここは昨年NHKの番組「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平も自転車で走った鹿児島県本土中央部にある加治木という町である。人口は半世紀前から約23,000人と変わらない。江戸時代は街道の要や港、今は鉄道やバスなどの交通の便がよく鹿児島市のベッドタウンとして発展してきた。この町に「天下の奇習」とも言われる「クモ合戦」がある。発祥は島津家第17代島津義弘であると伝えられる。関ケ原の戦いで見事な敵中突破で有名な島津義弘が、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、兵を元気づけるため陣中でクモを戦わせたのが起源とされている。その400年の歴史あるクモ合戦が、今年も6月第3日曜日に町の福祉センターで開催された。町の人口の1割近い1,800人が集まりその熱い戦いに視線を注ぎ歓声をあげていた。半世紀ぶりに見るクモ合戦だ。

戦わせるのはコガネクモの雌、体長は約20mmでクモの種類では大型の方で黄色と黒の横縞模様がある。クモは肉食性の小動物で2匹を近づけると攻撃を仕掛け合うという性質がありそれを戦いに利用する。出場者は県外の人もいるが大会のひと月前に薩摩半島や大隅半島の南部で100匹前後を採集し、自宅の庭や小屋あるいは屋内で強いクモに飼育する。大会当日はクモを網袋に待機させて戦いを待つ。子供の部と大人の部に分かれ、戦いの場は一段高いところにあり遠くからもよく見える。その戦場を見学者や関係者が取り囲み戦いを観戦する。クモの持ち主は最前列でその勝敗の行方を見守る。

 

高さ1.5mの竿の上端から水平に張り出された横棒が合戦の舞台である。横棒は長さ50cm太さ1cmの竹で「ひもし」と呼ばれる。横棒の先端に「かまえ」と呼ばれるクモを待機させる。両者が糸を棒に付けた後に裃と袴をつけた行司が「タッタッタ」と声をかけて仕掛けのクモを追い立てて開戦となる。勝負は、噛みついたり、糸を絡めたり、棒から落としたりすることで決着がつく。戦いの様子を司会者が実況で伝えるので、勝負があった瞬間歓声と拍手が会場に響きわたる。勝者は素直に喜びを表わしガッツポーズする者もいる。クモの戦いでこれほどまでに熱が入り盛り上がるかと驚く。今年も優勝者コメントが新聞に掲載された。地方紙も毎年取り上げる伝統の行事だ。

 

今年はこの時期に中学の同窓会あった。同窓会は卒業生の約3割90名が集まった。中には50年ぶりという人もいた。同窓生の一人はクモ合戦の行司をしていた。遠いようで近い、近いようで遠い町。いつもの展望台から心に刻まれる懐かしい風景を見るのは次はいつになるのかな。人にはそれぞれ心に刻まれた風景があるだろうななどと考えながら、羽田空港行きの全日空機に乗り鹿児島空港を後にした。(7期 榎本)

 

【第26回 Kissの会投稿】「ハナミズキを忘れない」

目黒川の桜

 仲間が集まってお酒が入ってワイワイと気分が盛り上がった時様々なイベントが決まることが多い。今年も旧正月頃毎年行う遅めの新年会で
「今年も花見のこと考える時期だね、今年も牛久シャトーにする」「リタイヤするとなかなか都心にも行かないので都心での花見はどう」 「そうだね、じゃ、今年は人気の目黒川の花見とかどう」 「いいね、昼間宴会できる店もあるので今年は目黒川にするか」 と4月初旬のウイークデーにシニア10名が集まった。中には十年ぶりに顔合わせる仲間もいて再会を喜び、目黒雅叙園での休憩を入れて中目黒までの川沿いを歩いた。桜はまだ3分咲きだったが、まだ記憶に新しい大相撲春場所優勝を果たした稀勢の里の出身地牛久のメンバーは「優勝祝」も兼ねての大いに盛り上がった昼宴会だった。

ハナミズキ

 桜狂騒時期が終わる頃街路樹が薄紅色や白い花また紅色に変わるのに気がつく。今から約100年前の1915年に桜を贈った日本への返礼としてアメリカから日本に来たという日米友好の木「ハナミズキ」だ。そのハナミズキを見るたびに思い出すことがある。20年くらい前の事だった。妻の友人に「この木を見てもハナミズキという名前がなかなか出てこないんだよ」と話したら、海外在住や添乗員経験のあるその友人は「鼻水黄色(ハナミズキイロ)と覚えておけば忘れないよ」と言う。それからハナミズキの季節が来るたびにそのことを思い出す。そして「ハナミズキ」を忘れることがない。もちろん日本人なら「花見好き(ハナミズキ)」でも忘れることはないと思うが・・。またハナミズキというと一青窈のニューヨークで2001年に起きた9・11テロへの思いを詩にして歌にしたという名曲があるが、あれからもう15年以上経つんだな。

筍(孟宗竹)

 ハナミズキの季節を同じくして瑞々しい新緑の季節に入る。広葉樹中でも落葉樹が一斉に新芽を噴くと景色も一変する理由はわからないが、一年の中でも最も元気をもらうのである。筍もその新芽の一つだ。竹の生垣で育った私には竹への愛着があり郷愁を覚える。子供のころ親に「味噌汁に入れる筍をとってきて」と頼まれ採りたての筍を具にした味噌汁を思い出す。その筍は「大名たけのこ(でめたけ)」で、あくが少なくそのまま食べたり焼いたりしても美味しいものであった。
 今年も仲間で筍会を開催した。「筍の頭がこちらに出ているよ」「どうすれば上手に掘れるかな」「これは刺身でも食べられるんじゃない」 など童心に返り無心で収穫に汗をかく。そしてビールを飲んで語る。こちらは孟宗竹で不作の年だったが、筍が主役の春のひと時を満喫した。
新緑に「我々は新しい息吹でこれから逞しく成長していく。君たち(人間)も頑張れ」と言われているようだ。来年も桜を楽しみハナミズキを見て新緑の季節を仲間と過ごす、そんな時間が持てたらいいなと思う。そのためには新緑にパワーもらい一日一日を暮らして行こう。尚、ハナミズキの花言葉は『私の想いを受けてください』である。(7期生 榎本)

【Kissの会 第19回投稿】「病息災を祈り心新たに」

鶏(干支)

 毎年正月2日は家族揃って一張羅の服を着て、杵つき鏡餅を背負い祖父母の家に行く。叔父叔母従妹が30~40名くらい集まりお雑煮食べ酒を飲むという賑やかな宴会が続く。父は千鳥足で帰宅というのが子供の頃の昭和のお正月だった。今年の三が日は穏やかな天気に恵まれた。大晦日は年越し蕎麦に紅白歌合戦、元旦はお雑煮を食べお屠蘇代わりのとっておきの日本酒・菩提寺挨拶・初詣・箱根駅伝観戦など例年通りのお正月だった。

 人生6度目の酉年を迎え、普段は意識することがない干支を年末年始は意識する。干支というと子供の頃、普段寡黙でしめ縄などを手作りする職人肌の父が、正月のお酒で饒舌になり干支の話をする。元旦に神様が動物に競走させた。一番で到着した牛の背中に乗ったネズミが飛び降りて一着になり順番が決まったという話である。それで「子・牛・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」になったという話を半信半疑で聞いたものである。

大鳥神社(目黒)

 鶏(酉)は神鶏で夜明けを告げる「明るい年回りへの準備の年」といわれ縁起がいいといわれる。初詣は近年は明治神宮や浅草寺に行くことが多かったが、今年は酉年の初詣スポットのひとつ目黒の「大鳥神社」に行った。酉は 酒を入れる器である酒樽のことで酒の元の字が「酉」であるというが、酒にお世話になる機会が多いので、今年も「酒」で楽しい時間を過ごせればと思う。

どんど焼き

 また我々の地域では正月の松飾りやしめ縄・書初めなどを持ち寄り神社の境内に小屋(どんどや)を組み燃やすという「どんど焼き」の行事がある。今年も今季最強寒波といわれる今日(14日)行われた。どんど焼きは小正月(こしょうがつ=1月15日)前後に最北端は秋田県、最南端は鹿児島県で行われている行事で、だんごを焼いて食べ無病息災・五穀豊穣を祈るものである。

 お正月に100歳超えの現役医師・日野原重明氏と現役美術家・篠田桃紅氏の対談番組を見る機会があった。その中で日野原先生が「生きる秘訣は毎年新しいことを始めること」「人間希望が生きる源」と話されていた。その日野原先生は100歳でfacebookを始めたそうだ。改めて「生きるコツ」が何か学んだ気がした。
今年もどんど焼きのだんごで無病息災を祈ることができた。次はささやかでも新たな目標と新たな出会いのために行動し、生きる実感を得られる日々にしていこうと心新たにした年初だった。(7期生 榎本)

【Kissの会 第12回投稿】お祭りに学んだこと

番田神代神楽

番田神代神楽

今年は台風に悩まされる夏だが、奇跡的に終日晴天に恵まれた8月26日御嶽神社の例大祭が行われた。さがみはら風土寄稿による御嶽神社は源秀が応永年間(1394~1428)に勧請したと伝えられ約600年の歴史がある。午後1時本殿で関係者参列のもと式典そして番田神代神楽の奉納である。笛や太鼓やかねの厳かな音色で身が引き締まる。午後3時場所を境内に移し大勢の観客が見守る中で獅子舞の奉納である。獅子舞は剣獅子、女獅子、巻獅子の3匹の獅子と鬼形の面をかぶった岡崎の獅子4人、花笠2人、笛と唄手10数名で構成される。獅子4人が笛や唄に合わせて舞い踊る全身を使った大きな舞である。唄は全部で11種類終盤にいくほど舞のテンポが上がる。時間にして30分だが、炎天下では意識朦朧となるほど体力消耗する踊りで終わると肩で息する。現メンバーになって13年、20代はじめからはじめたメンバーも今では30代半ば、中の一人は台湾在住の甥っ子でこの日には 必ず郷土に帰り踊る。

獅子舞奉納

獅子舞奉納

この獅子舞は1812年に西多摩郡から伝わり何度か途絶えたが口承芸能として今に至り神奈川県の無形民俗文化財となり他地区でも踊ることが多い。そして午後7時から例大祭のフィナーレとなる一年で一回しか使わない舞台を使った演芸大会となる。今年は16組がトランペット演奏やダンスや唄など様々な練習成果を披露してくれた。

毎年のことだが出演者では子供達の人気は高く応援に駆け付ける父母・祖父母で境内はすき間ないほど満席に埋まる。ただ今年は獅子舞の長身イケメン4人が獅子頭を脱ぎ、今年のヒット曲「海の声」を熱唱した時、観客は舞台にくぎ付け、終わった時は獅子舞の労いも入った大拍手だった。今年のお祭りのヒーローだった。そして今年の例大祭も無事に盛大に終了した。この例大祭を秋祭りと称し、7月には夏祭があり子供神輿で地域を練り歩く行事も天気に恵まれ盛大に終えることができた。この神社の二大祭り観客もスタッフも笑顔で締めくくれ今年の大役を無事終えることができた。

日本の神社数は約8万、町内の小規模なお祭りから全国的にも有名なお祭りまで含めると全国で31万と推定されるそうだ。世界でも無類のお祭り大国といえる。古代から続く日本の祭りの原点は同じで「神を迎え、神をもてなし、神を送る」ことである。またその起源は農作業の区切りと季節の変化に基づいて行われ春に豊作祈願、秋に収穫感謝、夏は疫病退散祈願が目的で行われたという。

観客の笑顔・笑顔

演芸大会・観客の笑顔

日本人の好きなお祭りから「共認(共に認める、解り合える、分かち合える)充足(喜び)」が当事者にもたらされるというが、今回は祭り運営の責任者となり、準備段階から慰労会まで多くの人の協力・支援を頂いた。そこで感じたことはやはり参加度の高い人とは多くの共感を感じることができるということである。つまり「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」なのだ。豊かさがあたりまえになってきた今日、日頃からお祭りや小さな行事でも参加度を高め共感を感じたいと思う今年の夏だった。(7期生榎本)

【Kissの会 第6回投稿】居酒屋を旅する

玄関

歴史のある店構え、縄のれんを入ると、そこは京町屋らしい奥行きのある建物、その古さに圧倒される。手前はコの字カウンターで奥が厚みのあるテーブルなっている。手前と奥を行き来するには太鼓橋を渡る。そしてまず日本酒、それも燗酒を頼むと大きな甕にある7種類ブレンドの酒を竹橋杓徳利に汲んで燗してくれる。
短冊手書きの御品書きから、まずは定番の「しめ鯖」そして「赤貝」「京都らしいぐじの酒蒸し」「地鶏塩焼き」と頼み究極の「鯨ベーコン」と注文する。その間日本酒がぐびぐびと進む・・最高級の肴に酒、店の雰囲気、店の対応、客の雰囲気と至福の時間だ。ここは京都千本通中立売上ル(せんぼんなかだちうり)西側玉屋町にある昭和9年創業の老舗居酒屋である。

店内

店内

私は近年居酒屋を旅するようになった。現役時代は同僚&仲間で大衆酒場に繰り出していた。京都のような居酒屋を知り、いつのまにかこのような昭和居酒屋の滞在時間が長くなり居酒屋依存症になっていた。何故このような居酒屋に惹かれるのだろう?日本には多様な呑み屋文化があるが「こだわりの和の酒と肴を出す個人店か家族経営の小じんまりした一人客二人客主体の店」が私の居酒屋の定義なのである。古民家で夫婦経営、カウンターだけとなると最高位の条件となる。
旅先での居酒屋では当然一見客だが、暖簾をくぐるときのワクワク感と不安感、店に入り常連さんに暗黙の了解頂ける振る舞い、そしてお目当ての酒肴と雰囲気を楽しむことになる。そこに職場や家庭にはない遊戯心溢れる「究極の癒しの聖地」があるのだ。転勤や趣向から生活拠点を転々としたが、各地の「聖地」のおかげで明日へのエネルギーを蓄える至福の時間がもてた。

Exif_JPEG_PICTURE

しめ鯖

それまでも出張や旅先で、その地の居酒屋を探すという楽しみがあったが、最近では居酒屋そのものが目的となる旅が多くなってきた。居酒屋旅を始めて10年位になる。JR東日本で新幹線も含んで定額乗り放題という大人の休日倶楽部がある。今冬は五能線で秋田・能代・青森の居酒屋を巡る旅に行った。冬のみちのく旅3年目になるが、訪れた居酒屋は店主も客も暖かく素晴らしい酒と肴だった。今春は西日本トップと評価する人もいる福岡のカウンターのみの居酒屋にも行った。お店探しも今やネットや本で至れり尽くせりの情報が得られるが、迷ったときには大田和彦氏の「居酒屋百名山」という本を道標に北海道から鹿児島まで多くの山を登ってみた。どれも「聖地」となる店が多く、これからも準備がいらず遭難リスクのない山に登ろうと思う。
皆さまの聖地はどういうところにあるでしょうか?Kissの会から日々感じた事を投稿しそれが皆さまと接する機会となれば幸いです。(7期生榎本)
 写真は「旨いもん三昧やん!!」より http://sibumi.blog103.fc2.com/blog-entry-1643.html